鎌倉幕府滅亡 1333年
鎌倉幕府を支えていたのは、関東を中心とした武士団だった。彼らは幕府によって所領を安堵される代わりに、幕府への忠誠を誓うという存在だった。いわゆる「御恩と奉公」である。
元弘の変 後醍醐天皇による鎌倉幕府打倒計画 1331年
後醍醐天皇は、正中の変の失敗が武士による情報漏洩が原因であったことを踏まえ、今 ...
正中の変 後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒計画 1324年
1318年に即位した後醍醐天皇は、天皇自らが政治を行う親政を実現するために、側近の参議日野資朝、蔵人頭日野俊基らの公家や土岐頼兼、多治見国長らの武士と謀り、密 ...
霜月騒動 安達泰盛一族滅亡 1285年
8代執権北条時宗(在職1268年-1284年)の頃から幕府では、御家人と御内人(みうちびと)という2つの集団が対立していた。そし ...
元寇 弘安の役 モンゴルとの2度目の戦い 1281年
文永の役で不本意な撤退を強いられたフビライは、再度の日本攻略を計画する。フビライは再び使者を遣わし日本に服従を迫るが、執権北条時宗はその使者を鎌倉まで呼び、そこで斬首した。
元寇 文永の役 モンゴル(元)との1度目の戦い 1274年
10世紀後半以降、日本は中国の宋(1127年以降は南宋)とのあいだで貿易(日宋貿易)を盛んに行い、朝鮮半島には高麗王朝が存在した。
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モンゴルの使者、国書をもたらす 1266年
一度は途中悪天候のため断念し、引き返している。これはモンゴルと日本の戦争が起きたときに、高麗が先鋒となることを危惧した高麗王が渡日を ...
宝治合戦 三浦泰村の乱 1247年
1226年13歳で将軍に就いた藤原頼経は、成長にしたがい御家人との結びつきを深め、権力の伸長を図るようになっていた。
執権の権勢が不安定になることを警戒した4代執権北 ...
御成敗式目(貞永式目)制定 北条泰時 1232年
鎌倉幕府で御家人の合議制が整備され、集団指導体制をとるにあたり、政治についての共通の認識ともいうべき抽象的指導理念が必要となった。
また、承久の乱以降、新たに任命された地頭の行動や年貢の納入等を巡って各地で ...
北条泰時、執権となる 1224年
1221年の承久の乱では、幕府軍の総大将として、叔父時房とともに西上し、京方を打ち破り、その後も六波羅探題北方として、京都・畿内・西国の支配に当たった。これが六波羅探題の ...