丁未の乱 587年 蘇我馬子が物部守屋を滅ぼした

2023年5月1日

飛鳥時代587年に、仏教の崇拝と皇位継承をめぐって崇仏派の大臣・蘇我馬子と排仏派の大連・物部守屋が争った内乱のこと。

物部守屋 Wikipediaより

用明天皇(聖徳太子の父)が亡くなったあと、天皇後継問題が起こると、最有力候補であり物部が推していた穴穂部皇子が蘇我方に殺害される。

この天皇後継を巡る争いに加えて、物部と蘇我は仏教の受容についても対立していた。古くから呪術を行い大王(天皇)家に仕え、物部神道を主宰する物部一族は排仏派、一方、新興勢力の蘇我氏は、仏教を導入してそれを自らの勢力基盤に育てようとしていた。

そうしたなか穴穂部皇子殺害事件が起こり、これをきっかけに両者は武力衝突に至る。

587年、馬子は守屋討伐を決意し、厩戸皇子(聖徳太子)、泊瀬部皇子(後の崇峻天皇)などの皇族や、諸豪族の兵を率いて、守屋の館へ進軍した。皇族や豪族のほとんどが、馬子側に加担していた。
初めは、物部氏が優勢だったが、当時14歳の聖徳太子が急いで四天王の像を彫り、それを掲げて先頭に立って進軍すると、一気に蘇我側の志気は上がったという。やがて物部の大将である守屋が、蘇我側の弓矢攻撃により射殺されると物部側は総崩れになって、蘇我の圧勝に終わる。

物部の領地と奴隷は両分され、半分は四天王寺へ寄進され、残りの半分は馬子の妻が守屋の妹であるため馬子のものとなった。

以下、詳しく。興味のある方は、お読みください。

物部氏の祖は「饒速日命」(ニギハヤヒノミコト)といわれており、天皇家と同族である系譜を持ち饒速日命をはじめとする日本古来の神を崇敬する保守的な豪族であった。代々「大連」として大王(天皇)の補佐をしながら大和朝廷の政治を担当していた。守屋は572年、敏達天皇の即位に伴い、大連に任じられる。

一方の蘇我氏は、5世紀ごろ、仁徳、履中、雄略各天皇の皇后や皇妃を一族から出し、天皇家の外戚として権勢をふるっていた葛城氏から稲目のときに独立した一族といわれている。(その他の説では、①神功皇后の三韓征伐などで活躍した武内宿禰が祖である説 ②朝鮮半島の百済から渡来した人々を祖とする説がある。)

いずれにしても蘇我氏は、大陸の新しい文化と技術を伝えた渡来人の集団を支配下に置いて組織するなど、国際的視野の広い豪族であった。そして稲目は「大臣」という役職に就く。その稲目の子が馬子である。

6世紀後半、朝廷内では朝鮮半島から伝来した仏教を国家として受容すべきか否かで意見が分かれていた。仏教を受容し信仰する崇仏派に蘇我馬子、反対する排仏派に物部守屋がおり、意見がまとまらない時期が続き、その対立は深まる一方だった。

そうしたなか敏達天皇が崩御し、新たに用明天皇が即位する。用明天皇は欽明天皇と馬子の妹の間に生まれた子であり、即位には馬子の権謀があった。

馬子をはじめとする崇仏派の勢力が大きくなるなかで、守屋は敏達天皇の異母弟である穴穂部皇子と手を結ぶ。

さらに用明天皇が即位から2年後に病に倒れると、天皇は仏法への帰依を鮮明にした。馬子は仏教の僧に天皇の回復を祈らせた。

こうして馬子をはじめとする崇仏派が勢いを増してくるなか、守屋はこれに対抗すべく一族の本拠地である河内国に退き、排仏派の結集を図る。

用明天皇が崩御すると馬子はこの機に乗じて穴穂部皇子を殺害し、翌月には泊瀬部皇子(のちの崇峻天皇)、竹田皇子(炊屋姫の子)、聖徳太子(用明天皇の子)らとともに、河内にある守屋の家に攻め込んだ。守屋軍も善戦したが、数で勝る馬子側の勝利となり、物部守屋一族は滅亡した。

≪スポンサーリンク≫


置物| ふくろう | 一位一刀彫 |BECOS (thebecos.com)

飛鳥

Posted by kojiro