室町・織豊

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三好長慶とその一族は、1549年から織田信長入京の1568年まで中央で政権を担った。それは信長に先立つ統一政権だった。

応仁の乱後、室町幕府は衰退したが崩壊には至らず、局地政権として畿内周辺に存続していた。その時幕府を実質支配していたの ...

室町・織豊

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1597(慶長2)年1月、文禄の役のあとに再び朝鮮半島で行われた戦役。豊臣秀吉の死後、全面撤退した。

第1回目の朝鮮出兵(文禄の役・1592年)のあと、明とのあいだで講和交渉が重ねられた。交渉では、日明双方の交渉担当者の手によって、講和 ...

室町・織豊

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1597年2月5日、長崎で京都・大坂のキリシタン宣教師・信徒らが処刑された事件。

前年のスペイン船サン・フェリペ号事件が直接の契機となり、西ヨーロッパ諸国の日本侵略を疑った豊臣秀吉が、京都およびその近郊にいたフランシスコ会士6名、日本人 ...

室町・織豊

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1596年、暴風雨のため土佐国の浦戸に漂着したスペイン船サン・フェリペ号の処置をめぐって生じた事件。

豊臣秀吉は1587年にバテレン追放令を発布したが、南蛮貿易の実利を重視していたこともあって、宣教師たちは黙認という形ではあったが日本で ...

室町・織豊

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日本の支配者となった豊臣秀吉は明の征服(唐入り)を決意し、陸路で明に侵攻するべく朝鮮半島に上陸した。

海軍力に不安を持つ秀吉は、朝鮮半島を通り陸路、明に侵攻する計画を立て、そのために李氏朝鮮を日本に服属させる交渉を行ったが決裂した。秀吉 ...

室町・織豊

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1590(天正18)年、豊臣秀吉が小田原を本城とする北条氏政・氏直父子を攻撃し滅亡させた戦い。

小田原北条氏は室町末期、伊豆の堀越公方を襲い、その後伊豆一国を平定した伊勢新九郎長氏(北条早雲)を祖とし、以来5代100年にわたって関東と伊 ...

室町・織豊

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1587年、豊臣秀吉が出した宣教師の追放令。九州平定後、筑前筥崎で発令した。

追放令は5カ条からなり、神国・仏教国の日本で、邪法キリスト教が説かれることは不適当であるから、宣教師は20日間以内に国外退去せよとしている。

ただ ...

室町・織豊

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1587(天正15)年、豊臣秀吉が九州に遠征し、島津氏を破ってこれを降伏させ、九州全土を平定した戦い。

戦国末期、九州は強力な戦国大名三者による三つ巴の抗争が展開されており、これを「大友・龍造寺・島津の三氏鼎立時代」などと呼ぶことがある ...

室町・織豊

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1585年(天正13)羽柴秀吉が長宗我部元親を討って四国を統一した戦い。

当時の四国は、土佐の長宗我部元親が四国をほぼ統一していたが、それ以前から賤ヶ岳や小牧・長久手の戦いなどで、ことごとく秀吉に敵対していた。そのため秀吉は、元親討伐を ...

室町・織豊

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1584年(天正12)3月から11月にかけて羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄の連合軍が尾張国内で戦った合戦。

秀吉は、本能寺の変後、清須会議、賤ケ岳の戦いを経て、信長の後継者としての立場を強めていった。これに対して脅威を感じた信長の次男信雄 ...