壬申の乱 672年
672年、天智天皇の死後、弟の大海人皇子と息子の大友皇子が後継者の地位を争った古代最大の争乱。
当時は皇位継承について、天皇の子が第一位の継承者という決まりはなく、むしろ慣例的には同母兄弟の方が優先されていた面があった。慣例に従うならば、弟の大海人皇子が後継天皇となるのが自然だが、天智天皇が慣例を打破し、唐にならった嫡子相続制の導入を目指していたとすれば、大友皇子への継承ということになる。何にせよ、この皇位継承における基準の曖昧さが戦いの一因となっている。
天智天皇は、大友皇子が成長すると、新しく設けた政府の最高の地位である太政大臣に任じた。このことは、大友皇子が最有力の皇位継承者であると位置づけられたものと考えられる。いわば天智天皇は大友皇子を自己の後継者とする意思を示したものといえる。
さらに、蘇我赤兄(あかえ)と中臣金(こがね)を大友皇子の補佐役として左右大臣に就け、大海人皇子を政治の表から遠ざけた。このことが大海人と大友との対立を深めることとなった。
こうした天皇の意を察した大海人皇子は、身の危険を感じ病床の天智天皇に、出家の意志を告げて吉野に移った。こうして皇位に野心のないことを示し中央政界から身を引いた。
天智天皇が亡くなると、大友皇子が671年、弘文天皇(在位約半年余り)として即位する。
ここから両者の武力による戦いが始まる。両軍それぞれ数万の兵力で大和、近江、河内など各所で激しく戦ったが、戦闘は1ヶ月で終わり、反乱者の立場である大海人皇子が勝利した。大友皇子は自害に追い込まれた。大海人皇子は都を飛鳥に戻し、飛鳥浄御原宮を造って天武天皇として即位した。
壬申の乱は、その後「王の中の王」と呼ばれた天武天皇を誕生させた歴史的な事件で、その意義は極めて大きい。
天武天皇はその治世(673―686年)において、既得権益を排除して天皇専制を強力に推し進め、天皇主権国家・律令国家の基盤を築いた。
ちなみに、日本ではじめて天皇を称したのも、「日本」という国号を採用したのも天武天皇といわれている。
【補説】
壬申の乱は、日本書紀に詳しく書かれているが、その記述は乱に勝利した側の手になるものである。つまり、日本書紀の編者舎人親王は大海人皇子の子であり、成立時の天皇元正天皇(女帝)は大海人皇子の孫であるという関係からいって、大海人皇子に不利な事実が記述されていないことは十分考えられる。しかし壬申の乱が、後世にその名を遺す天武天皇を誕生させたことは、紛れもない事実である。