遣隋使  607年

2023年4月30日

607年、聖徳太子は中国の文物・制度を摂取する目的で、小野妹子らを大使として隋に派遣した。

581年中国において隋による統一国家が実現し、東アジアの情勢が変化したのを契機に、日本は倭の五王以来約1世紀の間中絶していた中国との通交を再開した。

607年には小野妹子らが派遣され、このとき提出した国書に「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや云々」と、書き出されており、隋と対等の形であったために、隋の皇帝煬帝は「蛮夷の書、無礼なる者有り、復たもって聞する勿れ」と怒ったという。中華思想では、天子は我が身一人でなければならなかったのである。

翌608年、妹子は隋使裴世清とともに帰国、同年再度使節として渡隋。このとき、高向玄理、僧旻、南淵請安らが留学生、学問僧として同行した。

彼らは20数年間にわたり隋唐の制度・文物についての知識の習得に努め、帰国後、日本の文化の発達や政治改革等に貢献した。

遣隋使は614年の犬上御田鍬らの派遣を最後とするが、この事業は遣唐使に継承されていくことになる。





飛鳥

Posted by kojiro