鎌倉幕府滅亡 1333年

2023年5月4日

1333年、新田義貞が鎌倉に侵攻し、鎌倉幕府を滅亡させた。

新田義貞公肖像 Wikipediaより

鎌倉幕府を支えていたのは、関東を中心とした武士団だった。彼らは幕府によって所領を安堵される代わりに、幕府への忠誠を誓うという存在だった。いわゆる「御恩と奉公」である。

しかし、所領は相続が続くにつれ、子孫によって細分化され、中には経済的に困窮する御家人も多くなっていく。特に九州では元の侵攻によって受けた経済的ダメージが深刻で、戦争に参加した御家人の多くは疲弊し、幕府への不満を募らせていた。新たな土地を恩賞としてもらうという従来の慣例が通用しない外敵との戦争であったためである。

また貨幣経済の浸透とともに、昔ながらの土地の給付による御家人への報酬のあり方に綻びが顕在化していった。

一方、元寇の後、北条氏は得宗家による独裁体制の強化を進めるが、それに不満を持つ御家人も多くなる。さらには、幕府や荘園領主の支配に従わず体制の統治の外で、独自に勢力を蓄える者(悪党)も生まれていた。こうして幕府は様々な不安要因を抱えることになる。

こうした社会不安に乗じて、時の後醍醐天皇は、平安時代以前の天皇親政を画策し、正中・元弘の2つの変を起こすが失敗する。しかしその後も、後醍醐天皇の皇子大塔宮護良親王や河内の楠木正成、播磨の赤松則村ら反幕勢力が各地で活動していた。この情勢を踏まえ、後醍醐は名和長年を頼って、流されていた隠岐を脱出し伯耆国の船上山で挙兵する。

幕府は朝廷の鎮圧に足利尊氏を遣わすが、尊氏は逆に幕府に反旗を翻し、京都を制圧する。関東では新田義貞が他の御家人と共に鎌倉を攻め、ついに1333年北条高時以下一族280名が自害に追い込まれ、鎌倉幕府は滅亡した。尊氏も義貞も共に源氏と血縁のある名門御家人であった。

尊氏が京都を抑えると、隠岐から脱出した後醍醐天皇が京都に戻り、朝廷による政権の復活を宣言する。

1185年に源頼朝が開府した鎌倉幕府は、1333年に滅びるまでの148年間にわたる武家政権だった。

 

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Posted by kojiro