元弘の変 後醍醐天皇による鎌倉幕府打倒計画 1331年
1331年、後醍醐天皇が正中の変(1324年)に続き企てた鎌倉幕府打倒の計画。企てはまたも事前に発覚し、幕府打倒は未遂に終わったが、幕府滅亡の契機となった。
後醍醐天皇は、正中の変の失敗が武士による情報漏洩が原因であったことを踏まえ、今度は南都北嶺という宗教権門の武力を頼ることにした。
天皇は、始めに護良親王、次いで宗良親王を天台座主として比叡山延暦寺に送り込み、自らも東大寺・興福寺・延暦寺に行幸し宗徒勢力の糾合に努めた。また円観、文観らの僧に命じて幕府調伏の祈祷を勤めさせるなどして、倒幕の準備を進めた。
しかし、事態の進展に不安を覚えた天皇の近臣・吉田定房が討幕の計画を幕府に密告する。
これによって討幕運動の中心人物であった者たちが幕府によって捕えられ、鎌倉に護送された。身の危険を察知した後醍醐天皇は神器を奉じて宮中から脱出、南都(奈良)へ向かい、最終的には山城国・木津川沿いの笠置寺に入った。
天皇に呼応した近隣の武士たちは奮戦したが、幕府側の大軍の前に寺は陥落した。天皇は寺から脱出したが途中捕らえられ、六波羅に送られて隠岐に配流処分とされた。また正中の変で佐渡に幽閉中だった日野資朝や鎌倉に送られた日野俊基らは処刑された。幕府は後醍醐天皇を廃して、持明院統の光厳天皇を擁立した。