元寇 文永の役 モンゴル(元)との1度目の戦い 1274年

2023年4月30日

1274年、来襲したモンゴル(元)との1度目の戦い。日本が初めて外国軍の侵略を受けた戦争。

蒙古襲来絵詞【文永の役】矢・槍・てつはうの飛び交う中、馬を射られながら蒙古軍に突撃する竹崎季長 Wikipediaより

10世紀後半以降、日本は中国の宋(1127年以降は南宋)とのあいだで貿易(日宋貿易)を盛んに行い、朝鮮半島には高麗王朝が存在した。

13世紀初頭、チンギスハンのもとで急速に勢力を拡大したモンゴルは、またたく間にユーラシア大陸にまたがる大帝国の建設に成功した。

その後モンゴルは東アジアに侵攻し、1259年に高麗を征服、翌年フビライハンが第5代皇帝に即位した。フビライは、モンゴルの官吏となっていた高麗人から日本との通交を進言され、日本に着目することになる。

フビライは、1266年から1272年にかけて国書を携えた使節を6回日本に派遣した。最初は「親睦を深めたい(ただし、同意しなかった場合は武力侵攻も辞さない)」という文面だったが、次第に直截に服属を要求する内容へと変わっていった。

この時点で、元(1271年に改称)は南宋も事実上服属させていたため、軍事作戦を対日本に専念させることが可能となったのである。

一方、鎌倉幕府は、服属を要求する元の執拗な勧告に応じる姿勢をみせなかった。このため、フビライ率いる元の日本遠征は時間の問題になっていった。

こうしてついに、1274年10月5日、元・高麗軍が2万6000人の軍勢で押し寄せ、対馬・壱岐を侵略し、さらに九州の松浦(現在の長崎県北部)を攻撃した。この情報が伝わり、九州の御家人が太宰府に集結した。

日本の武士たちは、侵攻して来た元軍に対し、功名手柄の大チャンスと勇みたち、元軍との合戦でいかに自分の手柄を売り込むかに先を争う状態になる。

日本古来の一騎打ち戦法で功名手柄を狙い突出してくる日本の武士たちを、元軍は集団戦法と最新兵器の「てっぽう」で苦しめた。

元軍は優勢に戦いを進め、日本軍の本陣まで攻め落としたが、日本軍の士気は衰えず、総崩れする気配はなかった。

そのうち日没となり、モンゴル軍は沖合に停泊させていた船団に引き上げる。そして、その夜襲った暴風雨により、元軍の船団は壊滅状態となった。

日本に来襲した元軍の中には、元に降伏した高麗・南宋の人々も多く含まれていたため、彼らの士気は必ずしも高くなく、国の異なる指揮官たちの間では内部抗争が絶えなかったというが、結局、この作戦が勝敗の分かれ目となった。

この文永の役の結果、幕府が名実ともに全国の統治者へと成長していくことになった。

従来、貴族や寺社は幕府の命令が及ばない存在だったが、強大な外敵との戦いという緊急事態を迎え、彼らも守護の指揮下に置かれ、上納されるべき年貢は兵糧米として徴収された。さらに御家人・非御家人の区別なく守護の指揮のもとに異国防御にあたることが指令され、異国降伏の祈祷命令も朝廷に代わって幕府が全国に出した。



鎌倉

Posted by kojiro