元寇 弘安の役 モンゴルとの2度目の戦い 1281年

2023年4月30日

1281年、来襲したモンゴル(元)との2度目の戦い。

『蒙古襲来絵詞』【弘安の役】敵船に乗り込む竹崎季長と大矢野三兄弟 Wikipediaより

文永の役で不本意な撤退を強いられたフビライは、再度の日本攻略を計画する。フビライは再び使者を遣わし日本に服従を迫るが、執権北条時宗はその使者を鎌倉まで呼び、そこで斬首した。

モンゴルの再度の来襲を覚悟した幕府は臨戦体制をとる。

博多湾沿いに高さ約2m、総延長約20kmに及ぶ防塁を築いた。この防塁は当時「石築地」と呼ばれ、防塁を築造する負担を「石築地役」といい、御家人ばかりでなく九州地方の所領所有者たちもこの負担を分担した。

なお、この防塁は弘安の役の際、元軍の上陸を阻止するのに威力を発揮した。

また、九州北部の沿岸地域の警備を御家人に命じて強化した。これを異国警固番役という。これはすでに文永の役以前からはじまっていた。

さらに文永の役後には、九州北部から中国・北陸地方にかけての地域(周防・長門など)の守護を北条氏一門と交替させた。

そして、幕府は従来不介入とされてきた公家・寺社支配下の荘園・公領にも力を及ぼし、幕府と主従関係を結んでいない非御家人をも動員できる権限を得た。

1279年に南宋を滅ぼした元は、1281年日本に攻め寄せてきた。
東路軍・江南軍2手に分かれた軍船が北九州を目指し、合流した上で一挙に攻め入ろうとする作戦だった。東路軍は元・高麗を主力とした兵4万、900隻の艦船、江南軍は降伏した南宋兵10万、3500隻の艦船で、合計兵14万、艦船4400隻にも及ぶ大軍勢である。

5月3日に朝鮮半島の合浦を出発した東路軍と、6月18日に中国の寧波を出発した江南軍は7月27日に肥前鷹島に集結し、九州北部に迫った。
日本側の戦意は高く、文永の役の教訓を生かして防戦に努めた。

元軍の強さは訓練された騎馬軍団にあったが、海上や水際が主戦場であったため、本来の威力が十分に発揮できなかった。

さらに、この軍勢は南宋や高麗など、フビライに敗北して不本意ながら従っている兵士が大半で、戦意もさほど高くなかった。
日本側の奮戦により上陸を阻止され海上で待機している間、またも暴風雨に襲われた元の船団は、大損害を受け撤退を余儀なくされた。

こうして日本は2度にわたる元の襲来を、御家人を主とした武士たちの奮闘により撃退した。

幕府の命令により、御家人たちは2度にわたる元の侵攻を戦った。侵略に対する防衛戦であったため、幕府は御家人に対し、十分な恩賞(土地)を与えられなかった。

2度の戦争と九州での警護の為、御家人は財政に窮し、借金で苦しむようになる。

幕府は売買が御家人同士でされていた場合、売買が成立してから20年未満の土地は、原則として元の領主に無償で返却されること、という徳政令を発布して御家人の窮状を救おうとした。

しかし、徳政令は借金の棒引きに関する事だけで、根本的な原因である、御家人の収入の安定については解決できなかった。また借金の棒引きを強制された商人側も、新たに徳政令が発布されるかもしれないと警戒し、御家人との取引を控えるようになった。

その結果、ますます生活苦になる御家人が出てしまい、不満は解消されなかった。

こうして元寇の後、没落する武士が出現し、それらの中には鎌倉幕府に不信感を抱くものも多くいた。さらに新興階層である悪党(既存の勢力に従わない武士)と呼ばれる者も登場し、その活動が拡大していった。
これらが原因のひとつとなり、およそ50年後、鎌倉幕府の滅亡に繋がっていく。

鎌倉

Posted by kojiro