霜月騒動 安達泰盛一族滅亡 1285年

2023年5月5日

1285年に、鎌倉幕府の重臣だった安達泰盛とその一族が、執権北条貞時の内管領平頼綱によって滅ぼされた事件。

『蒙古襲来絵詞』 自邸で竹崎季長の「先駆けの功」の訴えを聞く安達泰盛 Wikipediaより

8代執権北条時宗(在職1268年-1284年)の頃から幕府では、御家人と御内人(みうちびと)という2つの集団が対立していた。そして弘安の役から3年後の1284年、時宗が死去すると両者の確執がいよいよ激しくなる。

御家人の代表が安達泰盛で、三浦氏滅亡(宝治合戦:1247年)後、幕府内で北条氏に次ぐ勢力を誇っていた。泰盛は、彼の妹が時宗に嫁いでおり、娘は九代執権となる北条貞時を産み、すなわち時宗の舅、貞時の外祖父となっていた。このことが彼の力の背景であった。

一方、御内人を主導するのが内管領の平頼綱である。当初御内人は、北条得宗家の所領の代官として管理を担当していた。その後、北条一門による守護職の独占が進むにつれてその地の守護代を務めた。弘安の役においては、得宗家の従者たる御内人が戦場に派遣されて、御家人を主体とする軍の指揮にあたった。この結果、得宗家の勢力が強化され、それに伴い御内人も幕府内で権勢を持つようになり、御家人と御内人との対立が激化する。

1284年に両者の調停役となっていた執権時宗が死去し、14歳の貞時が9代執権になると、幕政運営を巡る両者の対立が頂点に達する。安達泰盛の子宗景が源頼朝の落胤であると称して源氏姓を名乗ったが、平頼綱はこれを謀反と断定し貞時に讒訴する。

頼綱は泰盛討伐を決意し、計画を用意周到に進めた。泰盛が貞時邸に出仕したところを、御内人の手勢に襲わせ死者30名、負傷者10名に及んだ。

これをきっかけに大きな衝突が起こり、合戦は安達方の敗北となり、泰盛以下安達一族500名余りが自害・討ち死にして果てた。さらに騒動は全国に波及して各地で安達氏に与した御家人が追撃を受け敗死した。

この霜月騒動は、源頼朝没後に繰り返された北条氏と有力御家人との間の最後の抗争であった。この結果、幕府創設以来の有力御家人の勢力は壊滅し、平頼綱率いる得宗家被官(御内人)勢力の覇権が確立した。

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鎌倉

Posted by kojiro