和田合戦 和田義盛一族滅亡 1213年

2023年4月30日

1213年5月2~3日に鎌倉幕府の有力御家人で、侍所別当だった和田義盛が幕府に対して起こした反乱。

和田義盛 Wikipediaより

義盛は相模国の豪族・三浦氏の一族で幕府創業の功臣の一人として権勢を有していた。1199年、初代将軍源頼朝が死去し、頼朝の長男頼家が2代将軍に就任すると間もなく御家人同士の争いが勃発、北条氏が次々と有力御家人を滅ぼしていく。

1200年梶原景時、1203年比企能員、1205年畠山重忠が、それぞれ北条氏によって一族滅亡に追い込まれた。その間の1204年に、北条氏は頼家を殺害し実朝を3代将軍に据えている。

また、畠山重忠を滅亡に追いやった執権北条時政はそのときのいきさつから長男義時の信頼を失い、義時によって追放された。このとき義時が2代執権に就いた。

1213年、こうした北条氏および義時の専横に反発した信濃源氏の泉親衡が、義時打倒を企てた。しかし陰謀は事前に発覚し、加担したとされた和田義盛の子である義直、義重、甥の胤長ら十数人が捕縛された。

義盛は一族の赦免を将軍実朝に懇請したが、首謀者とされた胤長だけは許されず、義時により縄に縛られたまま一族の面前に晒され、陸奥に流罪となった。

さらに胤長の屋敷は当時の幕府の慣例に従い、一旦義盛に与えられたものの、その後義時が決定を変更し没収した。

こうした義時の行動に、義盛は挙兵を決意する。

同族の三浦義村や縁戚の横山氏と結んで北条氏を打倒するための兵を挙げた。しかし、義村の裏切りに遭い、兵力で勝る義時に圧倒されると和田一族は敗れて滅亡した。

この勝利により、北条氏の執権体制はより強固なものとなった。



鎌倉

Posted by kojiro