モンゴルの使者、国書をもたらす 1266年

2023年5月4日

モンゴルの皇帝フビライは1266年に、日本に国書を渡そうと2名の国使を任命し、高麗に案内役を命令する。

フビライハン Wikipediaより

一度は途中悪天候のため断念し、引き返している。これはモンゴルと日本の戦争が起きたときに、高麗が先鋒となることを危惧した高麗王が渡日を阻止したともいわれる。

しかし、フビライが再度高麗に命じたため、高麗王は再び使者を立て、日本に送り出した。こうしてフビライの国書を携えた使者が1268年大宰府に到着する。

太宰府の鎮西奉行武藤資能は、すぐに国書を幕府に届け、朝廷にも回送された。

国書の内容は、日本との通商を促す文面で好意的なものに見えるが、これに同意しないならば出兵の用意もあるという威嚇を込めた文言と受け止めることができるものだった。

幕府は評議した結果、蒙古の国書の真意は武力を行使してでも、日本を他国と同じように支配下におくという脅迫のようなもので、いわゆる侵略を意味していると解釈した。

朝廷も国書の内容が無礼であるとして、答書を与えないとしたため、幕府は高麗の使節になんらの書状も持たさずに帰国させた。いわば国書を黙殺した。幕府の執権は18歳の北条時宗。

その後も数回にわたりモンゴルの使者が太宰府を訪れ、交渉を行うが幕府はそれをことごとく撥ねつける。

朝廷は伊勢神宮・石清水八幡宮など22社に異国降伏の祈願を行わせた。また幕府も賀茂社に神馬・御剣を奉納し、さらに各地の御家人らに異国警護の用心を発し、防衛体制を整えた。

モンゴルの国書は朝廷や幕府に大きな衝撃を与えたが、国民は自分たちが蹂躙され、国が隷属させられるとまでの認識には至っていなかったといわれる。

 

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鎌倉

Posted by kojiro