承久の乱 武士が天皇を廃立した空前の事件 1221年

2023年4月30日

1221(承久3)年の朝廷と鎌倉幕府との戦い。武家が朝廷に勝利した日本の歴史上空前の出来事。

百人一首の札の一つ「後鳥羽院」 人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに もの思ふ身は Wikipediaより

鎌倉幕府が成立し、着々とその基盤が固められていく一方、京都の公家の間では根強い反幕府の動きがあった。北条氏が幕府内で実権を握り、朝廷で後鳥羽上皇の院政が始ると、両政権の対立が次第に表面化した。

公家勢力の回復を図るために幕府打倒の機会をうかがっていた後鳥羽上皇は、源実朝暗殺後の幕府の内紛に乗じて挙兵した。

上皇は諸国の有力御家人に対して、北条義時追討の院宣を発する。同時に畿内近国の関所を固めさせた。

京方は院宣の効果を絶対視しており、諸国の武士はこぞって味方すると確信していた。特に幕府の有力御家人には格別の院宣を添えて、使者を鎌倉に送るなどの工作も行っている。

上皇挙兵に朝廷側の士気は高まる。一方、朝敵となる鎌倉の武士は大いに動揺したが、北条政子が御家人たちに対して、幕府創設以来の頼朝の恩顧を訴え、武士社会を支える原理である御恩と奉公の関係に従って、その御恩を幕府に返すよう求めた。

また、朝敵の恐れについて政子は、讒言を上皇に吹き込む「君側の奸」を取り除くのが目的であると諭し、武士の不安を払拭した。

こうして武士の多数は幕府側に味方し、幕府軍は短期間のうちに朝廷側を圧倒した。

承久の乱に勝利した幕府によって、首謀者である後鳥羽上皇は隠岐、順徳上皇は佐渡にそれぞれ配流された。討幕計画に反対していた土御門上皇は自ら望んで土佐国へ配流された。また、仲恭天皇は廃され、後堀河天皇が即位した。

こうして幕府は公武二元支配の状況の下で優位に立ち、皇位継承や朝廷の政治に介入すると共に、六波羅探題を設置して朝廷を監視した。

没収した3000余カ所に及ぶ所領には東国御家人を地頭として任じ、勢力を西国まで拡大した。

3人の上皇が流され、天皇が廃立された承久の乱は、日本の歴史上空前の出来事で、天皇権威の絶対性が揺らぎ、朝廷に対する武家政権の優位性を決定づけた。以降、明治維新まで600年余り、朝廷・天皇が再び実権を握る事はなく、将軍や幕府といった権力者の権威付けという役割を担う機関となっていくこととなる。



鎌倉

Posted by kojiro