宝治合戦 三浦泰村の乱 1247年
1247年、5代執権北条時頼が三浦氏一族を滅ぼした合戦。
1226年13歳で将軍に就いた藤原頼経は、成長にしたがい御家人との結びつきを深め、権力の伸長を図るようになっていた。
執権の権勢が不安定になることを警戒した4代執権北条経時は、頼経を排斥し将軍職を嫡男の頼嗣に譲らせた。しかし頼経はその後も大殿と称され、前将軍として勢力を保持していた。
1246年北条氏の支流名越光時が、頼経を擁してこの年5代執権に就いた北条時頼から執権の座を奪おうとしたが、事前に発覚して追放され、頼経も京都に送還された。
一方三浦氏は、幕府草創以来の有力御家人の数少ない生き残りとして幕府内部に重きをなし、評定衆の三浦泰村(義村の次男)も北条泰時の女婿として勢力をふるっていた。しかし、執権時頼の外祖父安達景盛父子と対立し,北条氏とも疎遠になった。
北条氏は自己に対抗しうる三浦氏の勢力を警戒し、名越光時が時頼を除こうとした事件に泰村の弟光村が加担していたことを利用して三浦氏の排斥を図る。
1247年、時頼・景盛の陰謀により戦闘となり、三浦一族は反抗したが敗北、泰村以下一族近親500余人は鎌倉法華堂で自害した。