北条泰時、執権となる 1224年
鎌倉幕府第3代執権。父は北条義時。(在任期間1224-1242)
1221年の承久の乱では、幕府軍の総大将として、叔父時房とともに西上し、京方を打ち破り、その後も六波羅探題北方として、京都・畿内・西国の支配に当たった。これが六波羅探題の始まりである。
泰時は、1224年父義時の死により、鎌倉に帰って執権に就任した。42歳のとき。
翌年政子と大江広元が相次いで没すると、泰時は連署を設け、時房をその任に就けることで自らの独裁を封じた。同時に、有力御家人11名を選んで評定衆を設置するなどして、合議的な政治運営を行った。
また1232(貞永1)年には、武家最初の法典「御成敗式目」を制定し、法治主義(客観的な道理)にもとづいて政務を処理する事を内外に示した。
さらに、鎌倉周辺の街道・港湾の整備、鎌倉大仏建立の支援なども行っている。
一方、朝廷との関係では、協調を基本としつつも、承久の乱で流された後鳥羽・順徳両上皇の還京要求を拒否し、また四条天皇没後、順徳上皇の皇子を推す朝廷側の意向に反して、土御門上皇の皇子を後嵯峨天皇として推戴するなど強硬な一面も見せた。しかし、このことで幕府に反抗する芽を摘み、承久の乱の再来を回避している。
こうして泰時の時代に、名実ともに執権政治が確立した。
承久の乱後の社会の混乱を収束させ、執権を中心とする幕府の新体制を軌道に乗せた泰時は、道理を何より重んじる清廉な政治家として、当時から公武双方の称賛を受けたという。