二・二六事件 北一輝 皇道派 統制派 1936年
陸軍の一部青年将校たちが、首都・東京の中心部を4日間にわたって占拠した事件。
1936(昭和11)年2月26日早朝、北一輝の思想的影響を受けていた皇道派の一部青年将校たちが、約1400名の兵を率いて首相官邸、警視庁などを襲い、斎藤実内大臣・高橋是清蔵相・渡辺錠太郎教育総監らを殺害し、国会を含む国政の心臓部を4日間にわたって占拠した。
昭和維新の実現をはかり、武力による国家改造を計画した。
天皇や天皇側近はこの反乱部隊を認めず、海軍は戦闘態勢を整えて一戦も辞さない決意を固めた。
翌27日には首都に戒厳令が公布され、28日には反乱部隊に対して原隊復帰を内容とする奉勅命令が出た。29日には下士官と兵は原隊に戻り(すべて無罪)、将校は一部を除いて自決せずに逮捕された。こうして4日間にわたる反乱は終わった。
事件後、統制派が皇道派を排除して陸軍内での主導権を確立し、陸軍の政治的発言力は一層強まった。
岡田啓介内閣に代わった広田弘毅内閣は、組閣に当たり閣僚の人事や軍備・財政などについて軍部の要求を受入れて成立した。以後、内閣に対する軍部の発言力が強まった。
北一輝:二・二六事件を引き起こした陸軍皇道派の青年将校らに大きな影響を与えた国家主義者。初めは社会主義に傾倒し、中国革命に参加したりもしたが、のちには右翼運動の理論的指導者となる。二・二六事件に連座して死刑となった。
皇道派:昭和初期の旧陸軍内の一派閥。天皇中心の国体至上主義を信奉、クーデターによる国家改造をめざす青年将校らに支持されたが、統制派が陸軍内に形成され対立、二・二六事件の失敗で衰退した。
統制派:昭和初期の旧陸軍内の一派閥。陸軍省や参謀本部の中堅幕僚将校を中心に、革新官僚や財閥と組んだ軍部の強力な統制のもとで総力戦体制をめざす一派。二・二六事件後、陸軍内での主導権を確立した。