乙巳の変  645年

2023年4月30日

645年、中大兄皇子(後の天智天皇)、中臣鎌足(後の藤原鎌足)らが蘇我家を滅ぼしたクーデター。

乙巳の変 左上は皇極天皇。 談山神社所蔵『多武峰縁起絵巻』 Wikipediaより

この時までに、蘇我氏は馬子、蝦夷、入鹿と3代にわたって大きな権勢を振るい、皇位継承にも深く介入していた。

蘇我馬子は崇峻天皇を弑逆し、皇位継承候補者の穴穂部皇子を殺害、子の蝦夷は山背大兄皇子の擁立を主張した同族の蘇我境部摩理勢を殺害し、孫の入鹿は皇位継承候補者の山背大兄皇子を殺害した。

こうして蘇我氏は天皇や皇位継承候補者を次々と葬り去り、皇位を壟断していた。

このような蘇我氏の専横に対して、これを排し天皇を中心とした官僚制的中央集権国家を確立すべきとして、中大兄皇子と中臣鎌足が立ち上がった。

2人は綿密に計画を練り、蘇我石川麻呂らを引き入れて、645年、半島三韓から進貢の使者が来朝し外交儀式が行われていた飛鳥板蓋宮で、儀式の最中に蘇我入鹿を殺害した。翌日、入鹿の父蝦夷も自害する。

こうして権勢をほしいままにしてきた蘇我氏本家は、一瞬にして滅亡した。

以下、くわしく。興味のある方はお読みください。

乙巳の変が起きた7世紀半ば、東アジアの情勢に大きな変化が起きていた。618年に隋が滅亡し、代わって唐が建国された。唐は律令制に基づく強い中央集権国家を造り、それは朝鮮半島の国々に大きな影響を与えていた。日本でも帰国した遣隋(唐)使からその模様が報告され、朝廷内部では律令制の導入が考慮されることとなる。

一方、内政面では蘇我氏の専制が強まっていた。聖徳太子(厩戸皇子)の死後、皇位継承問題がおこり、太子の子、山背大兄皇子らがいたが、蘇我蝦夷は山背大兄皇子を自害に追い込み、田村皇子を擁し舒明天皇として即位させ、国政も蘇我氏が私物化していった。

こうした蘇我氏の専横に危機感を持った中大兄皇子と中臣鎌足らが中心となり、隋(唐)から帰国した僧侶・留学生らが結びつき、蘇我氏打倒のグループが形成された。

さらに蘇我氏と反蘇我氏グループとの外交政策の相違が鮮明になる。蘇我氏は、朝鮮半島に勢力を広げている新羅打倒を企図し、新羅との交戦を計画していた。一方、反蘇我氏グループは、朝鮮半島の国々とは協調を図りながら、国内の政治改革を優先的に進めようと考えていた。

こうした状況のもとで645年6月、ついに反蘇我氏グループによるクーデターが実行された。





飛鳥

Posted by kojiro