長屋王の変 藤原四兄弟と対立 729年

2023年4月30日

729年2月、天武天皇の孫で高市皇子の第1皇子である長屋王が謀反の疑いで自殺させられた事件。

藤原武智麻呂 Wikipediaより

聖武天皇と夫人藤原光明子(のちの光明皇后)との間に生まれた基王(某王とも)が728年に死去すると、翌年、もう一人の夫人が安積親王を生んだ。

聖武天皇唯一の皇子である安積親王はやがて皇位を継承する身分であるため、将来権力の座を追われる不安を覚えた藤原氏は、場合によっては即位も可能な皇后の地位に光明子をつけようとした。

一方、長屋王は藤原不比等の死去(720年)後その勢力を伸ばし、724年に聖武天皇が即位すると左大臣に進み、政界の主導者としての地位を確立した。不比等の子である藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)はまだ若く、長屋王は舎人親王とともに皇親勢力で藤原氏を圧倒した。

長屋王は政権を握ると、社会の安定化と律令制の維持を図る施策を打ち出す。

その後次第に、長屋王と藤原四兄弟との政治的な対立が露になっていく。さらに、長屋王と吉備内親王との間の子女(膳夫王・桑田王・葛木王・鉤取王)が聖武天皇やその後継に万一の事態が生じた場合に、皇嗣になる可能性があった。このため、聖武天皇の外戚である藤原四兄弟にとって、長屋王と長屋王家は目障りな存在となっていた。

こうして、安積親王の立太子を阻み光明子の立后を目指す藤原氏は、これに反対することが予想される長屋王を排除するために、陰謀を巡らし長屋王家を抹殺した。

【補説】

長屋王の変後、729年に聖武天皇夫人光明子を皇后にするとの詔が発せられた。仁徳天皇の皇后である磐之媛以来2例目の皇族以外からの立后であり、以後、藤原氏の子女が皇后になる先例となった。

皇后は単に天皇の正妻であるばかりではなく、皇太子に準ずる執政権を持ち、天皇亡き後、皇位をめぐる対立が生じた場合、しばしば中継ぎの天皇として即位し、事態の収拾をはかる慣例があった。





奈良

Posted by kojiro