北条義時、父時政を追放 1205年
北条義時、幕府の実権を握る。
北条時政には後妻・牧の方との間に男子政範がいたが、政範が夭折したことにより将軍後見の立場(執権職)と北条氏の家督は、先妻との子・義時に継承されることとなった。
時政は、牧の方の意向もあって、彼女との娘の婿・平賀朝雅の将軍擁立を企てるが、政子・義時はじめ古くからの御家人たちの総反発を受け、時政と牧の方は孤立し、二人とも出家の上、1205年閏7月、義時により伊豆に追放された。
さらに義時は、同年8月2日、部下に命じて平賀朝雅を殺害する。
また、時を経ず、時政の娘婿にあたる下野国の宇都宮頼綱に謀反の疑いありとして、頼綱を出家遁世させる。