保元の乱 崇徳上皇・後白河天皇 1156年

2023年4月30日

1156年、崇徳上皇と後白河天皇が朝廷の主導権を巡り摂関家、源氏・平氏を巻き込んで争った事件。

崇徳上皇 Wikipediaより

12世紀半ばになると、天皇家や摂関家の内部で皇位や氏長者の地位をめぐる対立が激化していた。

天皇家では鳥羽上皇(白河上皇の孫)と崇徳天皇(白河上皇の子)が、対立していた。

崇徳天皇の母璋子(待賢門院)は白河上皇の愛妾だったが、白河は鳥羽天皇のもとに下げ渡す形で入内させ中宮の位に就けた。さらに、白河は鳥羽を無理矢理譲位させてわずか5歳の皇子(崇徳天皇)を天皇の位につける。このことから、鳥羽上皇は白河上皇に対して強い憎悪を抱いていた。

白河上皇が崩御すると、鳥羽上皇は反抗に出て崇徳天皇を譲位させ、皇子(近衛天皇)を2歳で即位させた。その後近衛天皇は17歳で崩御する。後継を巡り朝廷内では意見が割れたが、鳥羽上皇の四宮である雅仁親王が後白河天皇として即位する。崇徳上皇は立場上、院政を敷くこともできず、さらには自分を冷遇した鳥羽上皇への恨みから後白河天皇に対しても強い反感を持っていた。

一方、摂関家では藤原忠実と忠通父子の関係が悪化しており、父親の忠実は学識に秀でた次男の頼長に期待して、嫡男の関白・忠通を疎んじていた。それはそのまま忠通・頼長兄弟の仲を悪くさせていた。

他方、武士である源氏では、源義朝が南関東の武士団を統率する地位を確立し、その活躍が都にも知られるようになっていた折、鳥羽上皇がその武力を必要とし、義朝との結びつきを深めていた。それは摂関家を背景とする父為義らとの対立を意味していた。

また同じく武士の平氏は、清盛の父忠盛が平家一門の棟梁として白河・鳥羽両上皇に接近して中央政界に進出したのに対し、忠盛の弟忠正は崇徳上皇や藤原頼長との関係が深かった。

こうして、後白河天皇が即位した時には皇室、摂関家、源氏、平氏の中でそれぞれ対立が深まっており、鳥羽上皇が1156年に崩御すると朝廷の主導権を巡って崇徳上皇派と後白河天皇派が激しく衝突することになった。

崇徳上皇側には藤原頼長が平忠正や源為義・為朝らの武士を率いて参戦し、後白河天皇側についた関白藤原忠通、源義朝、平清盛らと戦闘になり、後白河天皇側が勝利した。鳥羽上皇の死からわずか9日後のことだった。

乱後、後白河天皇は退位して法皇となり、子の二条に天皇を譲った。政局は後白河法皇の近臣である藤原通憲(信西)が仕切る様相となった。





平安

Posted by kojiro