平治の乱 平清盛・源義朝 1159年

2023年4月30日

1159年、保元の乱で武功を挙げた平清盛と源義朝が争い、清盛が勝利し平氏政権の基盤を築いた。

『平治物語絵巻』に描かれた、平治の乱で敗走する義朝一行。 Wikipediaより

保元の乱後、武士である清盛と義朝の勢力は強大になった。清盛が院近臣の藤原通憲(信西)と結んだのに対して、義朝は藤原信頼と手を組んだ。

後白河天皇は保元の乱後に退位して法皇となり、子の二条に天皇を譲った。政権運営は後白河院近臣の信西が取り仕切るようになった。

信西は代々続く学者の家系に生まれ、学識豊かな英才として名を馳せており、鳥羽上皇からも重用されたが、特に後白河天皇の時代になると朝廷内で権力を振るうようになる。

信西の妻・紀伊局が後白河帝の乳母だったことも信西の権力基盤の一つだったと考えられる。

一方武士たちは、保元の乱による恩賞を期待する。乱後、平氏と源氏に恩賞が与えられたがその差はかなり大きいものだった。平氏には清盛が享けた大国・播磨国(兵庫県南西部)を含む4ヶ国が与えられた。

それに対し源氏には、義朝が左馬頭(朝廷で使う馬を管理する部署の長)に任ぜられた他は1ヶ国を与えられたに過ぎなかった。

両氏の恩賞の差は歴然としている上に、清盛と信西は仲が良くそのため平氏が優遇される状況を見て義朝は不満を募らせていた。

さらに、義朝のほかに信西に不満を持っていた人物が藤原信頼だった。

信頼は武蔵の国守を務めていたこともあり、関東支配を進める源氏とは元々関係を持っていた。また、信頼は後白河天皇の寵愛を受けて家臣として台頭していく過程で、信西と激しく対立していた。ここで義朝と信頼の両者は共通の敵である信西を潰すクーデターを計画する。

義朝と信頼は、清盛が熊野詣に出かけた留守を狙って兵を挙げ、信西を自害に追い込む。さらに大内裏を占拠して二条天皇と後白河法皇を幽閉して朝廷の実権を掌握した。しかし、熊野詣から急ぎ帰ってきた清盛が二条天皇と後白河法皇を取り戻す。さらに二条天皇から信頼と義朝追討の宣旨を受け取り官軍となった清盛は、彼らの軍勢を打ち破り平氏政権の基盤を築いた。



平安

Posted by kojiro