第2次長州征討 長州藩勝利 幕府権威失墜 1866年
第1次長州征討後の処分に長州藩が応じなかったため幕府は1866年、同藩への再出兵を決定した。
1864年の第1次長州征討で長州藩は幕府に恭順の姿勢を示し、藩内では恭順派(俗論派)が支配的となった。
しかし、こうした藩の姿勢に反旗を翻した高杉晋作は、下関で決起し長州藩は内戦状態となった。高杉は俗論派の家老たちを排除し、藩の主導権を奪い、奇兵隊などの軍事力を背景に藩論を「武備恭順」へと転換した。それは恭順の姿勢を示しながら軍事力強化をすすめるというものであった。
この方針に従って銃器や艦船を購入し、装備の洋式化を図り、幕府の再征に備えた。
こうした長州藩に対し、幕府は10万石削封ほかを内容とする処分を打ち出したが、長州藩が応じなかったため幕府は1866年、同藩への再出兵を決定した。「長州藩において、容易ならざる企てがある」という理由による再征であった。
幕府軍は4方面から長州に攻め入った。大島口(山口・周防)、芸州口(広島・大竹)、石州口(島根・益田)、小倉口(福岡・北九州)のいわゆる4境で幕府軍と長州軍の戦闘が繰り広げられた。
結果は当時の最新鋭の武器を揃えた長州藩の勝利となり、7月に家茂が大坂城で死去したことを契機に幕府軍は撤兵した。以降、幕府はその権威を失墜し大政奉還へと向かうことになる。
なお、この年の1月に薩長同盟が結ばれており、薩摩藩を通して長州藩にイギリス製の武器(ミニエー銃4300挺、ゲーベル銃3000挺など)が融通されていた。