第1次長州征討 禁門の変の罪を問う 1864年

2023年4月30日

禁門の変の罪を問うという理由で、幕府軍が、長州へ攻め入ろうとしたのが第一次長州征討である。

坂本龍馬によって作成されたとされる長州征討の図 Wikipediaより

禁門の変に敗れた長州藩は、厳しい立場に立たされた。戦いにおいて、天皇のいる御所へ向けて砲撃したといういわば大罪を犯した長州は、幕府だけでなく朝廷をも敵に回した。

幕府は変から数日後、禁門の変の罪を問うという理由で、朝廷から長州征討の勅旨を出させた。こうして幕府軍が、長州へ攻め入ろうとしたのが第一次長州征討である。

ところが、幕府軍の参謀となった西郷隆盛が、幕府軍艦奉行・勝海舟との会談後、長州を武力で攻めるのではなく、平和的に解決すべきとの主張を始める。西郷との会談で勝は、内戦の愚かさを説き、幕府の国内統治力が低下したいま、列藩連合による新たな政治体制の構築が肝要と論じた。こうした勝の話から西郷は考えを改めたのである。

西郷は、征討軍総督の徳川慶勝を説得し、話し合いで長州征伐を収束させることとした。

一方、長州藩も下関戦争で、4ヵ国(英・仏・蘭・米)の連合艦隊から攻撃を受けて疲弊し、その上幕府軍と戦うのは不可能と判断し、交渉に応じることになった。

幕府が示した長州藩の降伏条件は、禁門の変を率いた三家老の処分、毛利藩主父子の詫状の提出、長州が匿っている5人の公卿を大宰府に移すというものだった。

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Posted by kojiro