鎌倉

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3上皇配流、六波羅探題設置。

幕府は後鳥羽・順徳・土御門の3上皇を配流し、仲恭天皇を廃して後堀河天皇を即位させた。(なお、土御門は罪を問われなかったが、ひとり京都に留まるのを潔しとせず、自ら申し出て流罪となった。)

また六波 ...

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1221(承久3)年の朝廷と鎌倉幕府との戦い。武家が朝廷に勝利した日本の歴史上空前の出来事。

鎌倉幕府が成立し、着々とその基盤が固められていく一方、京都の公家の間では根強い反幕府の動きがあった。北条氏が幕府内で実権を握り、朝廷で後鳥羽上 ...

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治天の君・後鳥羽上皇と、東国で力を増す鎌倉幕府との対立が激しさを増していた。

鎌倉幕府開府後の日本は、東国を中心に守護・地頭を置いて各地を支配する鎌倉幕府と、西国に依然として力を持つ朝廷との二頭政治状態にあった。朝廷の収入源は諸国の膨大 ...

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1213年5月2~3日に鎌倉幕府の有力御家人で、侍所別当だった和田義盛が幕府に対して起こした反乱。

義盛は相模国の豪族・三浦氏の一族で幕府創業の功臣の一人として権勢を有していた。1199年、初代将軍源頼朝が死去し、頼朝の長男頼家が2代将 ...

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北条義時、幕府の実権を握る。

北条時政には後妻・牧の方との間に男子政範がいたが、政範が夭折したことにより将軍後見の立場(執権職)と北条氏の家督は、先妻との子・義時に継承されることとなった。

時政は、牧の方の意向もあって、彼女 ...

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忠義を貫き、武士の鑑といわれた畠山重忠を北条時政が謀殺した事件。

後妻(牧の方)を迎えていた北条時政は、牧の方との間に娘をもうけていた。この娘は、平賀朝雅と結婚しており、朝雅は京にいて時政を後ろ盾として権勢を誇っていた。

1 ...

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幕府執権北条時政が、幕府内で勢力を強めた比企能員を滅ぼした事件。

1203年7月に将軍源頼家が病に倒れ重篤になったため、幕府では評定により、将軍家の家督継承の措置がとられた。

日本国惣守護職および関東28カ国の地頭職が頼家の ...

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鎌倉幕府創設時に源頼朝を支えた功臣の一人である梶原景時が、その讒言の癖のゆえに他の御家人たちの信望を得られず、幕府から追放された事件。

頼朝以来の重臣の梶原景時は、将軍職を継いだばかりの二代源頼家を支える乳母夫の一人だった。

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源頼朝の死後、北条氏による執権政治が確立・強化されていった。

幕府は、将軍が御家人の本領を安堵する代わりに、御家人は軍役その他の役につくという「御恩と奉公」の主従関係を基盤とした。

源頼朝の死後、2代将軍源頼家の親裁を停止し ...

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1189年、源頼朝が奥州平泉の藤原泰衡を征伐した戦い。

頼朝に追われることになった義経は、かつて預けられていた奥州平泉の藤原秀衡の元に身を寄せた。頼朝との全面戦争に発展しかねない義経保護を、秀衡は大きな懸念を持ちつつも受け入れた。