承久の乱 戦後処理

幕府は後鳥羽・順徳・土御門の3上皇を配流し、仲恭天皇を廃して後堀河天皇を即位させた。(なお、土御門は罪を問われなかったが、ひとり京都に留まるのを潔しとせず、自ら申し出て流罪となった。)
また六波 ...
承久の乱 武士が天皇を廃立した空前の事件 1221年

鎌倉幕府が成立し、着々とその基盤が固められていく一方、京都の公家の間では根強い反幕府の動きがあった。北条氏が幕府内で実権を握り、朝廷で後鳥羽上 ...
後鳥羽上皇 承久の乱前夜

鎌倉幕府開府後の日本は、東国を中心に守護・地頭を置いて各地を支配する鎌倉幕府と、西国に依然として力を持つ朝廷との二頭政治状態にあった。朝廷の収入源は諸国の膨大 ...
和田合戦 和田義盛一族滅亡 1213年

義盛は相模国の豪族・三浦氏の一族で幕府創業の功臣の一人として権勢を有していた。1199年、初代将軍源頼朝が死去し、頼朝の長男頼家が2代将 ...
北条義時、父時政を追放 1205年

北条時政には後妻・牧の方との間に男子政範がいたが、政範が夭折したことにより将軍後見の立場(執権職)と北条氏の家督は、先妻との子・義時に継承されることとなった。
時政は、牧の方の意向もあって、彼女 ...
簡潔「畠山重忠の乱」北条時政による謀殺 1205年

後妻(牧の方)を迎えていた北条時政は、牧の方との間に娘をもうけていた。この娘は、平賀朝雅と結婚しており、朝雅は京にいて時政を後ろ盾として権勢を誇っていた。
1 ...
簡潔「比企能員の乱」 北条時政が比企能員を滅ぼす 1203年

1203年7月に将軍源頼家が病に倒れ重篤になったため、幕府では評定により、将軍家の家督継承の措置がとられた。
日本国惣守護職および関東28カ国の地頭職が頼家の ...
簡潔「梶原景時の変」 幕府草創期の功臣失脚 1200年

頼朝以来の重臣の梶原景時は、将軍職を継いだばかりの二代源頼家を支える乳母夫の一人だった。
源頼朝死去 13人合議制 執権政治の確立・強化

幕府は、将軍が御家人の本領を安堵する代わりに、御家人は軍役その他の役につくという「御恩と奉公」の主従関係を基盤とした。
源頼朝の死後、2代将軍源頼家の親裁を停止し ...
頼朝、奥州平定 頼朝による東国武士政権が確立 1189年

頼朝に追われることになった義経は、かつて預けられていた奥州平泉の藤原秀衡の元に身を寄せた。頼朝との全面戦争に発展しかねない義経保護を、秀衡は大きな懸念を持ちつつも受け入れた。