頼朝、奥州平定 頼朝による東国武士政権が確立 1189年

2023年4月30日

1189年、源頼朝が奥州平泉の藤原泰衡を征伐した戦い。

奥州・藤原秀衡 Wikipediaより

頼朝に追われることになった義経は、かつて預けられていた奥州平泉の藤原秀衡の元に身を寄せた。頼朝との全面戦争に発展しかねない義経保護を、秀衡は大きな懸念を持ちつつも受け入れた。

秀衡は、義経が平泉入りした9か月後、1187年10月に病死する。後を継いだ泰衡に、頼朝は義経の引き渡しを迫る。頼朝の威を恐れた泰衡は義経を殺したが、頼朝は藤原氏討伐の手を緩めなかった。

頼朝は、全国の武士を動員して陸奥国に出兵し、泰衡の本拠地平泉を攻めて滅ぼした。

これにより奥州を4代100年にわたって支配した奥州藤原氏が滅亡し、頼朝による東国武士政権が確立した。

以下、詳しく。興味のある方はお読みください。

 1185年、壇の浦の戦いで平氏を滅亡させて武家政権を樹立した源頼朝にとって安定した政権を築くためには、東北に確固たる地位を占める平泉の藤原氏を討伐することが必要だった。

藤原氏の討伐には、全国の在地領主を指揮統制する軍事権門としての地位を揺ぎないものにしようとする政治的意図と、平泉栄華の源である膨大な産金を押えるという経済的意図の二つの側面があった。

このような意図を持つ頼朝に、藤原征伐の絶好の口実を与えたのは、頼朝との聞に対立関係が生じていた義経を藤原秀衡が庇護したことだった。

1187年9月、頼朝の要請をいれた後白河法皇は秀衡に対し義経の引渡しを命じたが秀衡はそれに従わなかった。鎌倉の頼朝の圧力にも京都の朝延からの命令にも応じない不屈の秀衡も病気には勝てず、10月29日病没した。

父秀衡に器量で劣る泰衡は圧力に抗しかねて、翌1188年閏4月30日、義経を急襲し、その首をとり、これを鎌倉に送った。

泰衡は、これで平泉は安泰と思い、後白河法皇もこれで一件落着とみたが、平泉討伐の意図を持つ頼朝は、1889年6月25日、藤原氏追討の宣旨を法皇に要請し、その到着前の7月7日、28万4千騎といわれる大軍を動かし、自らは大手軍を率い、7月19日千余騎の直臣を従えて鎌倉を発った。そして8月22日、平泉に入る。

泰衡は、平泉の館に火を放って逃げ、数千の兵を率い蝦夷島に渡ろうとして出羽国の比内に立ち寄った。しかし現地の郎従・河田次郎の逆心にあって9月3日謀殺された。

こうして北方の王者として君臨した平泉藤原四代は滅亡した。

泰衡追討の宣旨(7月19日付)も9月24日に到着、奥州征伐は公の戦と認められるにいたった。



鎌倉

Posted by kojiro