白村江の戦い 663年
663年、百済救援のため出兵した白村江で日本・百済連合軍が唐・新羅連合軍と戦い、敗れた合戦。
7世紀の朝鮮半島は新羅・高句麗・百済の三国が並び立っていた。
654年、即位した新羅の武烈王は、唐の援軍を得て、朝鮮半島の統一を企図する。以来、新羅・唐連合軍と高句麗・百済連合軍の攻防が展開される。そして660年、新羅は唐の兵13万の援護を受けて百済に攻勢をかけ、百済王を捕らえた。
しかし百済の残党軍は再起を図り最後の抵抗を続ける。そして、日本に人質として来ていた百済の皇子余豊璋の百済送還と、日本からの援軍を要請する。余豊璋を王位につけ、百済を再興しようとしたのである。
百済からの要請を受けた斉明天皇は、九州の筑紫に本営を置き、翌661年正月、天皇自ら皇太子の中大兄皇子やその弟の大海人皇子らを率いて、九州に向かった。
かつて日本が勢力を及ぼしていた加耶諸国(日本書紀では任那)はすでになく、百済は日本と朝鮮半島をつなぐ唯一の場所であったため、斉明天皇は百済の救援を決めた。
しかし、天皇は半年後の661年7月に九州の地で急逝する。中大兄皇子は皇太子のまま、この戦争の指揮を執ることになった。
皇子は3度にわたり百済に救援軍を送るが、663年8月、白村江での戦いで日本・百済連合軍は唐・新羅連合軍に大敗を喫した。余豊璋は高句麗に逃れ、行方不明となる。これによって、ついに百済は滅亡した。
この敗戦により外国に対する危機感を強めた中大兄皇子は、戦いの翌年664年に対馬・壱岐・筑紫に防人と呼ばれる兵士と烽(ほう)と呼ばれる狼煙台を配置した。また、筑紫には大宰府防衛のための水城という城も造られた。
皇子の防衛強化の施策はその後も続き、長門、讃岐、大和などの西日本各地に城を築き、667年には都を防衛上有利な近江大津宮に遷した。翌668年、中大兄皇子は天智天皇として即位する。
以下、くわしく。興味のある方は、お読みください。
7世紀以降、唐は律令による中央集権国家として基盤を固めながら、周辺諸国に圧倒的な影響力を及ぼしはじめた。そのため、朝鮮半島においても、高句麗や新羅が中央集権体制への整備を進めるなどして、国力の充実に努めていった。そして、唐が高句麗に戦争をしかけると、朝鮮半島の緊張が一挙に高まり、新羅は唐に接近、新羅と対立関係にあった百済は日本との協調関係を深めていった。
しかし、660年、百済が唐・新羅の連合軍の進攻によって滅亡した。この後、百済の残党軍は日本に援軍を求め、あわせて、日本に送られてきていた皇子余豊璋を国王に迎えて国を再興したい、と要請した。
日本はこれに応え、翌年豊璋に兵士を従わせて帰国させ、王位を継がせた。次いで百済軍に物資を送るとともに、663年には大軍を朝鮮半島に送り込む。こうして軍事支援を行うとともに百済と連係して唐・新羅連合軍に立ち向かうが白村江の決戦で大敗する。
百済が日本に支援を求めた理由は、「百済国の復興」であり、日本がそれに応えたのは朝貢国(百済)を確保し朝鮮半島への影響力を維持することだったと考えられる。つまり、百済の滅亡は朝貢国(従属国)の消滅であり、逆にいえば、日本の支援により百済が再興されたならば、日本は朝貢国(従属国)を確保し朝鮮半島への影響力を維持することができる。
一方、国内の事情をみると、大化の改新以降、急速に進められた天皇への権力の集中は、伝統的な勢力をもつ有力豪族や地方の豪族に不平や不満をもたらした。そこで朝廷は対外戦争を行うことによって目を海外へ向けさせると同時に権力の集中を図り、改新政治のなかで生じた豪族たちの不平不満を解消しようとした。
そして、斉明天皇は自ら水軍を率いて出陣したが、途中で死亡する。そこで中大兄皇子が皇太子のままで陣頭指揮を執ることになった。
663年8月27日、28日に白村江の河口付近で戦闘は行われたが、日本軍は壊滅し百済再興は夢と消える。同時に朝鮮半島における拠点を失った。そのことはまた、唐と新羅連合軍による日本侵攻の脅威にさらされることを意味した。
こうした対外的危機に対処するため、中大兄皇子は防衛体制の整備を行い、対馬や壱岐、筑紫国に兵(防人)を駐屯させ、また、それらの国々には「烽(ほう)」という狼煙台を設置した。さらに、大宰府防衛のために、「水城(みずき)」を建設し、百済からの亡命貴族の設計で、朝鮮式山城も九州や瀬戸内海沿岸の各地に造られた。そして667年、中大兄皇子は防衛上の観点から飛鳥を出て近江国大津宮への遷都を行い、天皇として即位し天智天皇が誕生した。
一方、白村江の戦い以後の東アジア情勢は、668年、高句麗が唐の侵攻によって滅亡する。高句麗滅亡後には、朝鮮支配をめぐって新羅と唐が対立した。この新たな情勢のなかで、新羅は日本に接近し、日本は新羅と通交を深めていった。そのため、新羅とは頻繁に使節が往来することになり、大陸や朝鮮半島の先進的な文物が日本に流入した。
こうした物のなかには、漢字文化も含まれており、これが律令支配を進める朝廷の文書行政に大きな役割を果たし、日本の律令国家形成に大きく寄与することになった。
670年、天智天皇は、わが国最初の全国規模の戸籍である「庚午年籍」(こうごねんじゃく)を作成したといわれる。これによって徴兵と徴税を確実に行うと同時に朝廷の権力が全国的に行きわたることとなった。
≪スポンサーリンク≫