蘇我入鹿、山背大兄皇子を襲う 643年

2023年4月30日

643年、蘇我入鹿が政敵の山背大兄皇子を殺害すべく挙兵し、皇子のいる斑鳩宮を襲撃した。

「唐本御影」より聖徳太子像。向かって右の人物が山背大兄王とされる Wikipediaより

襲われた皇子は戦いを避けて斑鳩寺に入り、家族とともに自害した。

山背大兄皇子は、聖徳太子の息子で、母は蘇我馬子の娘・刀自古郎女で、蘇我入鹿とは従兄弟に当たる。

628年、推古天皇が崩御すると皇位継承争いが起こる。当時、朝廷内では馬子の子蝦夷が権勢を振るっていた。

有力な皇位継承の候補者として、田村皇子と山背大兄皇子がいたが、田村皇子を推す蝦夷は、山背大兄皇子を推薦した叔父の境部摩理勢を殺害し、田村皇子を舒明天皇として即位させた。ちなみに舒明天皇の息子には、古人大兄皇子、中大兄皇子(後の天智天皇)、大海人皇子(後の天武天皇)がいる。

こうして公然と蝦夷から遠ざけられた山背大兄皇子だったが、聖徳太子以来、その一族は上宮王家と呼ばれ、斑鳩を拠点として大きな経済力も保持しており、舒明天皇後の後継者として依然として有力な存在だった。

その後舒明天皇が崩御すると、蝦夷・入鹿父子は642年、舒明天皇の皇后を皇極天皇として即位させた。この皇極天皇が病に罹り、皇位が不安定になると入鹿は、蘇我氏の血をひく古人大兄皇子を皇極天皇の次期天皇に擁立しようと考えた。そのために変わらず有力な皇位継承権者である山背大兄皇子の存在がいよいよ邪魔になった。そしてついに入鹿は、山背大兄皇子を殺害すべく挙兵し、皇子のいる斑鳩宮を襲撃した。

皇子は「一身のために百姓万民を労するに忍びず」(日本書紀)と、戦いを避けて聖徳太子が建立した斑鳩寺に入り、家族とともに自死を選ぶ。

山背大兄皇子を殺すことまでは考えていなかった蘇我蝦夷は、息子の入鹿が皇子を死に追いやったことを嘆いたという。

この事件は、その後の乙巳の変へとつながり、蘇我氏は滅亡することになる。





飛鳥

Posted by kojiro