簡潔「畠山重忠の乱」北条時政による謀殺 1205年
忠義を貫き、武士の鑑といわれた畠山重忠を北条時政が謀殺した事件。
後妻(牧の方)を迎えていた北条時政は、牧の方との間に娘をもうけていた。この娘は、平賀朝雅と結婚しており、朝雅は京にいて時政を後ろ盾として権勢を誇っていた。
1204年11月、酒宴の席で平賀朝雅と畠山重忠の息子重保との間で口論があった。そのときは、同席した者たちがとりなしたため、何ごともなく散会したといわれるが、朝雅はこの口論をずっと恨みに思っており、重忠・重保親子の討伐を思いつき、時政を動かした。
当時の幕府の実権は、時政から息子の義時に移っていたため、時政は義時を説得する。
これに対し義時は最初、ひたすら忠節を尽くしてきた畠山重忠が謀反を起こすなどないとし、「もし度重なる勲功を心にとめず、軽率に誅殺すれば、きっと後悔する。罪を犯したか否か真偽を糺した後に処置したとしても遅くない」と反対したといわれる。
しかし最終的には討伐に同意し、重忠父子を討つことになる。ただ、義時は重忠の少人数の軍勢ではとても謀反など起こすことはできなかった、と判断し重忠討伐後、時政と牧の方を鎌倉から追放し、一度は没収した所領を重忠の未亡人に安堵している。
【補説】
吾妻鏡によると、1205年4月から鎌倉には不穏な空気が流れていた。
6月、鎌倉で謀反が起こるとの騒ぎがあり、由比ヶ浜に様子を見に行った重忠の息子重保が、三浦義村により殺害された。
重保は6月20日に鎌倉入りしており、重忠も19日に居館を出て鎌倉に向かっていたが、二俣川まで来ていた重忠のもとに、重保が討たれ、さらに自分を討つために北条氏の軍勢が向かってきていることが知らされる。
重忠勢は130騎程度だったが、館に引き返すことなく二俣川で北条氏の軍勢を待ち受け、激闘の末討死、非業の死を遂げたという。重忠は享年42。重忠も重保も、なぜ自分が討たれなければならなかったのか分からないまま戦い、討たれてしまったと思われる。