インパール作戦 白骨街道 1944年
1944(昭和19)年3月、日本軍は3個師団を投入して、インドに駐留するイギリス軍の主要拠点であるインド・マニプール王領の都インパールを攻略する作戦を開始した。
ビルマ(現ミャンマー)の防衛強化と、中国への補給ルート(援蒋ルート)遮断が作戦の目的だった。
3個師団のうちの一つ58連隊が、連合軍のインパールへの物資輸送の拠点コヒマまで進み、一旦はこれを制圧、連合軍の補給ルートを遮断したかに見えたが、もとより20日分程度の食糧しか用意せず、しかも軽装備での行軍という無謀な作戦であったため3か月余りで失敗した。
密林の中で食糧のないまま撤退をする将兵たちは、病と飢えで次々に倒れ、将兵たちの死体で埋まった撤退路は「白骨街道」と呼ばれるほどの悲惨なものだった。
インパール作戦は、当初から無謀な作戦であると反対意見が多かったにもかかわらず牟田口廉也司令官によって強引に進められ、戦後も長く批判された。
【補説】
インパール作戦は、3週間の短期決戦を想定し、9万の将兵によって実行された。熱帯のジャングルを行き、最大川幅600mの大河を渡り、3000mを超える山を越え、最大行程470㎞を踏破する、というかつてない作戦だった。
牟田口司令官は、行軍を少しでも早めるため、食糧や装備をできるだけ少なくした。作戦中に食糧が足りなくなったら、道端に生える野草を食べるか、部隊が引き連れてきた羊や牛などの家畜を殺して食べるよう命じた。
この計画を、牟田口はかつてモンゴル帝国を築いたチンギス・ハーンが家畜を率いて戦いに出た故事から「ジンギスカン作戦」と名づけて自賛した。しかし、羊や牛はチンドゥイン河を渡る際に流されるなどして、その大半を失ったという。