金融恐慌 (台湾銀行・鈴木商店・取付け騒ぎ) 1927年

2023年5月2日

1927(昭和2)年3月、時の蔵相の議会での失言をきっかけに取り付け騒ぎが起こり、多くの銀行が休業に追い込まれた経済状況のこと。

日本統治時代の台湾銀行本店 Wikipediaより

第一次世界大戦が終結(1918年=大正7年)してヨーロッパ諸国の復興が進み、その商品が市場に再登場してくると、開戦以来の好景気は終焉し、日本経済は苦境に陥った。

1919(大正8)年から貿易は輸入超過に転じ、翌年には株式市場が暴落し戦後恐慌が発生した。

次いで1923(大正12)年に、関東大震災が起こり日本経済は大きな打撃を受けた。銀行は手持ちの手形が決済不能となり、日本銀行の特別融資で一時をしのいだが、不況が慢性化する中、決済は進まなかった。

その後1927(昭和2)年3月、議会で震災手形の処理法案を審議する過程で、片岡直温蔵相の失言から、台湾銀行の鈴木商店に対する多額の不良貸出しが明るみに出た。その結果、取付け騒ぎが起こり銀行の休業が続出した。

時の若槻礼次郎内閣は、この問題の処理のため緊急勅令を諮ったが、枢密院に拒否され総辞職した。

次いで成立した田中義一内閣は、3週間のモラトリアム(支払猶予令)を発し、日本銀行から巨額の救済融資を行い、全国的に広がった金融恐慌をようやく鎮めた。

 

以下、詳しく。興味のある方はお読みください。

昭和初年の日本は、関東大震災の復興は進んでいたものの、戦後恐慌のうえに震災の打撃が加わったために経済不況が慢性化しており、その打開が大きな問題となっていた。

また、第一次世界大戦中に停止されたままになっている金本位制を復活させて、世界経済との調和を回復しなければならないという金解禁論も強まっていた。

しかし、未解決になっている震災手形の問題解決が喫緊の課題であった。

そして、加藤高明首相の死去(1926年1月)により、首相を引き継いだ若槻礼次郎が震災手形処理の問題に取り組んだ。

若槻内閣は、震災手形を一度整理して、回収不能で日本銀行の損失が確定した分は政府が補償し、その他については手形総額と同類の公債を発行して銀行に融資し、10年以内に清算させるという法案を議会に提出した。

しかし、この審議の過程で片岡直温蔵相の「渡辺銀行が破綻した」という失言により1927(昭和2)年3月には、多数の預金者が銀行に殺到する取付け騒ぎ(預金引き出しが集中すること)が起こり、さらに4月には、大戦中に急成長を遂げ、一時は三井、三菱をしのぐ勢いだった鈴木商店が倒産する。

そのため、鈴木商店に巨額の融資をしていた台湾銀行(日本の植民地・台湾の経済支配を担った銀行)が危機に陥った。

若槻内閣は緊急勅令によって台湾銀行を救済しようと枢密院に諮ったが、4月17日、伊東巳代治を中心とする枢密院は、この勅令案を否決する。そのため内閣は総辞職に追いこまれた。これは枢密院によって内閣が倒れた唯一の例である。

 

この頃、中国国内では排日運動が盛んになり、民族資本が次第に活発化して、綿紡績(在華紡=上海や青島などに資本輸出した日本の紡績工場の総称)をはじめとする日本商品の中国への輸出は低下するばかりだった。

こうした状況に対して、外相幣原喜重郎は、対中国武力侵略回避を基軸とする協調外交政策を採用していた。

この幣原の協調外交に財界、特に三井や軍部、政友会は強く反発しており、そのグループの代表者が伊東巳代治だった。

4月18日、台湾銀行が休業すると全国の銀行は取付け騒ぎに見舞われ、破綻する銀行が相次いだ。

4月20日成立した政友会の田中義一内閣(蔵相は高橋是清)は、緊急勅令により3週間のモラトリアム(支払猶予令)を発し、全国の銀行を休業させ、日銀に20億円近くの非常貸し出しを行わせた。さらに臨時議会を召集し、台湾銀行救済法を成立させて金融恐慌を鎮めた。

この時、銀行の再開に備えるため、紙幣の発行を行うが印刷が間にあわず、裏が白紙の状態の紙幣=裏白紙幣を市場に出した。

それまで中小銀行に預けられていた預金は、政府の指導もあって、大口については三井・三菱・住友・安田などの財閥系銀行に集中することとなり、小口については郵便貯金(大蔵省預金部資金)に流れていった。

このように金融恐慌は、中小銀行の経営を困難にし、銀行合同が急速に進んだ。

 

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昭和前半

Posted by kojiro