大政奉還 徳川慶喜 1867年
第15代将軍徳川慶喜は1867(慶応3)年10月14日、大政(=政治を司る権利)を朝廷に返上した。
徳川慶喜は、フランスの援助のもとに幕政の立て直しに努めていた。一方、1867(慶応3)年、前年に同盟を結んでいた薩長両藩は、武力討幕を決意した。
これに対し土佐藩はあくまで公武合体の立場をとり、藩士の後藤象二郎と坂本龍馬が前藩主の山内豊信(容堂)を通して、将軍徳川慶喜に討幕派の機先を制して政権を返還することを勧めた。
これは、将軍から一旦政権を朝廷に返すことで討幕派の名目を失わせ、朝廷のもとに徳川主導の諸藩の連合政権を樹立するという構想であった。
慶喜はこの策を受け入れ、大政奉還の上表を朝廷に提出した。この結果、朝廷は条件付きではあるが、慶喜の政治参画を引き続き承認し、征夷大将軍・内大臣という官職を保有することも許可した。
以下、くわしく。興味のある方はお読みください。
大政奉還前夜における政治的対立の基本構図は、徳川勢力対薩長である。そして1867年5月の兵庫港の開港勅許を契機に薩摩は武力討幕を決意し、挙兵の準備を進める。
両者の対立は一触即発の軍事衝突に向かおうとしていた。
ペリー来航以後、朝・幕二重政権が実質的に現出した。それまでも朝廷・幕府という二つの政府が併存し二重政府となっていたが、それはあくまでも形式であって、実際には幕府が朝廷を圧倒し、現実の中央政府は幕府であった。
しかし黒船来航にともなう国際政治に巻き込まれ、国家意思の一元化が必要とされるこの時期、幕府の弱体化によって逆にそれは二元化してしまった。
慶喜は、この二重政府の状態を克服するために幕府を自己否定するとともに、政権を朝廷に一元化しようとした。しかし慶喜は、現存する朝廷をそのまま認めたわけではなかった。
大政奉還の申し入れは、政権を朝廷に返上すると言いながら、慶喜自身が将軍職を辞する、あるいは将軍を廃止するといったことには、一切触れられていなかった。
当時の情況をみると朝廷に政権を返上したとしても、朝廷に政権を運営できるような人材も組織もなかった。実際10月14日の大政奉還以降も、政治の実務はそのまま幕府が行っており、幕府の政務の指揮は、慶喜がそのまま執っていた。
一旦は機先を制せられた形となった薩摩と長州、そして公家の岩倉具視たちの尊王倒幕派は、慶喜の力が温存された大政奉還を受け入れず、動きを速めた。そして彼らの働きで、一気に12月9日の王政復古のクーデターに至る。