恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱 孝謙上皇・道鏡 764年
764年、恵美押勝(藤原仲麻呂)が孝謙上皇、道鏡らに対して起した反乱。乱は鎮圧され、孝謙上皇が称徳天皇として重祚する
橘奈良麻呂の乱を平定し政権を掌握した藤原仲麻呂は、大炊王を擁立、758年、孝謙天皇からの譲位を受ける形で淳仁天皇として即位させる。仲麻呂は淳仁天皇のために、離宮として近江国に保良宮(ほらのみや)を造営する。さらに仲麻呂は淳仁天皇から唐風名として恵美押勝という名前を頂いた。この名前には広く恵みを施す美徳を備え、強敵にも押し勝つという意味が込められていた。そして太政大臣に上り詰める。
しかし760年、仲麻呂を支えてきた光明皇太后が亡くなると、仲麻呂は後ろ盾を失うことになる。
761年、平城京改修のため、保良宮に移っていた孝謙上皇が病に倒れ、弓削道鏡の祈祷を受けて平癒するが、これが機縁となって道鏡は上皇に近づき、寵愛を受けるようになった。道鏡の登場によって、孝謙上皇と淳仁天皇との間は悪化し、孝謙上皇・道鏡対淳仁天皇・仲麻呂との対立が始まる。
762年、孝謙上皇は国家大事・賞罰という二権の掌握を宣言する。政権の中核を押さえられた仲麻呂はついに挙兵した。しかし、唐で孫子の兵法を学び軍事に長けていた吉備真備が孝謙上皇方の最高司令官として迎えられると、その迅速な対応により、仲麻呂は緒戦で敗れる。機先を制せられた仲麻呂は、本拠地の近江国から越前国へ逃げようとするが上皇方にことごとく先回りされ、迷走を続けた末ついに斬殺された。
乱後、淳仁天皇も皇位を廃されて淡路に幽閉された(淡路廃帝)。孝謙上皇が称徳天皇として重祚する。
この乱はわずか7日間であったが、日本古代史の上では、壬申の乱(672)、藤原広嗣の乱(740)につぐ大規模なものであった。