長篠の戦い 織田信長の鉄砲戦術 1575年

2023年4月30日

1575年、三河国長篠城をめぐり、織田信長・徳川家康連合軍と、武田勝頼の軍勢が戦った合戦。

長篠合戦図屏風 Wikipediaより

武田勝頼は、1573年に信玄が病死したため家督を継ぐ。その2年後の1575年、勝頼は信長の領地の美濃に攻め入り、次々と城を落としていく。わずか1か月半の間に、18もの城を攻め落とした。

さらに、家康が支配する遠江へ侵攻、信玄さえ落とせなかった高天神城を陥落させた。この時武田家の領地は最大となる。そしていよいよ、家康の本拠地三河長篠城での戦いを迎えることとなる。

信長は、3000挺の鉄炮を準備、長篠城の西方設楽原に馬防柵を築いて陣を敷いた。勝頼も兵を設楽原へ移し、徳川・織田連合軍と対峙した。

武田軍は、騎馬隊を中心に攻撃をかけたが、信長軍の備えた乾堀、馬防柵、銃眼付き身がくしの3段構えに妨げられ突破できずに多数の将士を失った。

武田軍は敗走、勝頼も信濃へ逃れた。武田方の戦死者は山県昌景、馬場信房など信玄以来の宿将をはじめとして1万人に上ったといわれる。これ以後武田氏の勢力は急速に衰え、1582年に滅亡することになる。

この戦いにおいて、徳川・織田連合軍が新兵器の鉄炮を組織的に使用し、騎馬戦を得意とする武田軍に圧勝した点が注目され、従来の騎馬中心の個人戦から足軽の鉄炮隊を中心とする集団戦法へ移行する画期的戦闘といわれている。

【補説】

一般に、この合戦で信長は鉄炮を3段に構え交替で一斉射撃を行う戦法をとったと伝えられているが、実技上の見地からこの戦法が可能であったかどうか疑問とする説もある。



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Posted by kojiro