山崎の合戦 羽柴秀吉、明智光秀を討つ 1582年
1582年6月13日、明智光秀と羽柴秀吉が戦った合戦。この戦いに勝利した秀吉が、信長死後の織田家家臣における自らの立場を優位なものにした。
6月13日、山崎の地に到着した秀吉軍は、兵数およそ4万。対する光秀軍は、約1万6千の兵で対陣した。光秀の戦略は、山崎の地が天王山と淀川に挟まれた隘路となっており縦長になって進軍してくる秀吉軍を迎え撃つというものだった。
午後4時頃、光秀軍が先陣を切って戦闘が始まった。戦いが始まってしばらくすると、光秀軍の斎藤利三隊が秀吉軍の池田恒興、加藤光泰らに包囲され、孤立状態となり、崩れはじめた。光秀軍の中で最大の3千の兵を擁していた利三隊が崩れたことで、光秀は本陣を後方の勝龍寺城に移した。
斎藤利三は、明智家筆頭家老であり、家臣の中でも最も勇猛な部将として知られていた。それだけに利三が敗走したことで、戦いの帰趨はほぼ決したといえる。
光秀が退いた勝竜寺城は平城であるため、秀吉軍の追撃を防御できないと判断した光秀は、夜陰に紛れて城を脱出し本拠地の坂本城を目指した。しかし、その途中小栗栖の藪で襲われて、光秀は命を落とした。こうして、12日間の明智光秀の天下は終わった。