足利尊氏、反す 1336年
足利尊氏、後醍醐天皇からの上洛の命令を拒む。
1335年、中先代の乱を制し北条氏を一掃した足利尊氏は、後醍醐天皇からの上洛の命令を拒んで、そのまま鎌倉に留まり、功績のあったものに対し独自に恩賞を与えはじめた。
こうした尊氏の行動に怒った後醍醐天皇は、新田義貞に尊氏討伐を命じる。しかし尊氏と弟直義の足利軍が、箱根竹ノ下の戦いで新田軍に勝利し、そのまま京都に攻め入り、これを占領する。この時、後醍醐天皇は比叡山に退いた。
ほどなく、天皇の要請を受けた陸奥将軍府の北畠顕家が入京すると、楠木正成・新田義貞も加えた天皇方に京を追われた足利軍は播磨国室津まで退き、態勢を立て直した。その後九州まで下るが、途中光厳上皇から新田義貞討伐の院宣を獲得し、大義名分を得た尊氏のもとに西国の武士たちが次々と集結した。
九州入りした尊氏軍は、筑前多々良浜で九州最大の後醍醐方である菊池武敏を破るなど、各地で天皇方を圧倒し勢力を盛り返すと再び京を目指した。
1336年5月、湊川の戦いで新田義貞・楠木正成を破り、6月には再び京都を制圧した。尊氏は、比叡山に逃れていた後醍醐天皇に和議を申し入れ、天皇もそれに応じた。