石山合戦 織田信長、顕如を追放 1570年10月―1580年

2023年4月30日

織田信長と摂津国石山本願寺に拠る本願寺第11世顕如との間で、1570年から1580年までの11年間にわたって続けられた合戦。敗れた顕如は紀伊雑賀に退いた。

石山合戦図 Wikipediaより

1500年頃から、浄土真宗(一向宗)は当時の幕閣側近らとの関係を強め、勢力を伸ばしていた。一向一揆は、領主や守護大名などに対する戦いを各地に展開し、領土争いをするなど戦国大名化していた。

石山本願寺は10世証如の時代に、阿弥陀堂をはじめ諸堂を構え、宗門本山として体制を整えると同時に、防備のために堀や塀を厳重にめぐらし、寺域には寺内町を形成し、それはあたかも惣構えの城塞の観を呈した。本願寺は一大領主勢力に発展していた。

一方、信長は三好三人衆を一掃して京を抑え、1568年10月足利義昭を将軍に擁立して大きな権力を得た。しかし、次第に信長は義昭を軽んじるようになり、両者の関係は悪化していく。

また、本願寺が宗門でありながら武力集団化し権勢を誇示することに嫌悪感を持った信長は、本願寺に対し寺の破却を通告するなど苛烈な要求を始める。

そういう状況の中、石山本願寺に、将軍足利義昭から反信長包囲網に参加するようにとの誘いが届く。義昭は顕如をはじめ武田信玄、朝倉義景、浅井長政らの武将に声をかけ、信長打倒を計っていたのである。本願寺の存亡に危機を感じていた顕如も1570年10月、打倒信長を決意し、本願寺はその興廃をかけて全国門徒を対信長戦に駆りたてていった。

この石山合戦は、決着がつくまで10年の歳月を要することになる。1580年3月、朝廷の仲介により和議が結ばれ、顕如は石山本願寺からの退去を決意し、同年4月、紀伊雑賀に退いた。



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Posted by kojiro