建武の新政(中興)後醍醐天皇 1333年ー1336年

2023年4月30日

建武の新政とは、鎌倉幕府滅亡後の1333年6月から、足利尊氏に降伏する1336年10月までの後醍醐天皇による政治のこと。

後醍醐天皇 Wikipediaより

天皇は配流先の隠岐から京都に帰還すると、律令政治の再興を標榜して新政に着手した。武家による政治を倒し、天皇による親政を復活させたため、建武の中興とも呼ばれる。

後醍醐天皇が目指したものは、武家政権を排すだけでなく、院政や摂政・関白という伝統的な家格に基づく公家政治の慣習を否定し、天皇自らが公家武家両者を統率しようというものであった。

天皇は政権における自らの絶対性を示すものとして、所領個別安堵法(旧領回復令ともいう)を公布し、元弘の乱で奪われた所領を旧主に返還し、以後の土地所有権の変更は、すべて天皇の綸旨を必要とするとした。しかし、この法令は、土地領有に関する鎌倉幕府以来の慣習を根底から覆すものであったため、武士の反発を招いた。

建武新政府の諸機関として、中央に、所領安堵に関する訴訟を取り扱う記録所、鎌倉幕府の引付を継承した雑訴決断所、京都の治安維持のための軍事・警察機関である武者所(長官は新田義貞)、恩賞の事務をする恩賞方などが置かれた。

地方には国司と守護を並置し、各地域の治安維持にあたらせた。また東北・関東には、それぞれ陸奥将軍府・鎌倉将軍府を置いて皇子を派遣した。

さらに天皇は1334年1月、年号を建武と改元し大内裏の造営を発表した。また、貨幣の鋳造(乾坤通宝)の計画も立てたほか、諸国の一宮、二宮および国分寺を天皇直轄とするなど天皇の専制を強化した。

しかしこうした公家・武家・僧侶の慣習を無視した後醍醐天皇の独裁政治に対する反発が次第に大きくなり、足利尊氏・直義の反乱により建武新政府は瓦解した。

 

室町・織豊

Posted by kojiro