源頼朝、守護・地頭任命権獲得 鎌倉幕府成立 1185年

2023年4月30日

頼朝から圧力を受けた後白河法皇が、「守護・地頭」を任命する権利を源頼朝に認めた。

頼朝、上京の図

1185年、壇の浦の戦いで平氏が滅亡すると、後白河法皇は源義経からの要請により、源頼朝討伐を画策する。

しかし、逆に頼朝から圧力を受けた法皇は、追討令を撤回するとともに、「守護・地頭」を任命する権利を頼朝に認める。

守護・地頭の任命権は武士を支配する上で最も重要なものであり、このときを鎌倉幕府成立と考える説が昨今主流となってきた。
守護は、治安維持のため軍事・警察権を持つ地方官で、国ごとにひとりずつ配置された。
地頭は、土地の管理や年貢の取り立てに当たり、荘園や公領ごとに置かれた。

守護・地頭はいずれも頼朝と主従関係を結んだ有力な御家人たちだった。

このように頼朝は守護・地頭を配置することで、家臣の御家人たちを全国に派遣して支配力を強めた。

これは鎌倉幕府の全国支配の始まりとなり、その後も長く続いていく武士政権の基盤となった。

 

【補説】

荘園:貴族や寺社が所有する朝廷から独立した私有地のこと。

公領:朝廷の所有する土地のこと。

義経からの要請:平氏打倒に功のあった義経に対し、後白河法皇は左衛門少尉・検非違使という官位・官職を授け、義経もまたこれを頼朝に断りなく受けた。これが頼朝の怒りを買い、頼朝・義経兄弟の仲違いを決定づけた。頼朝との関係修復を諦めた義経は、後白河法皇に頼朝追討の院宣を出させて頼朝との対決を決意した。

頼朝からの圧力:追討の院宣に激怒した頼朝は、義経を捕まえるべく京に向けて兵を進めた。頼朝の怒りに恐れを抱いた法皇は、頼朝の求めに応じ守護と地頭の任命権を頼朝に与え、さらに義経追討の院宣を下した。これによって、頼朝は租税・軍事・警察権を掌握すると同時に、朝敵となった義経追討の大義名分も手にしたのである。

鎌倉

Posted by kojiro