簡潔「梶原景時の変」 幕府草創期の功臣失脚 1200年
鎌倉幕府創設時に源頼朝を支えた功臣の一人である梶原景時が、その讒言の癖のゆえに他の御家人たちの信望を得られず、幕府から追放された事件。
頼朝以来の重臣の梶原景時は、将軍職を継いだばかりの二代源頼家を支える乳母夫の一人だった。
1199年10月、北条政子の実妹阿波局(後の三代将軍実朝の乳母)は、景時が御家人の結城朝光について、「『この者は謀反をたくらんでいる』として頼家に讒言した」と朝光に伝えた。
驚いた朝光が三浦義村に相談すると義村は、和田義盛をはじめとする66人の連署を集めて景時への弾劾文を作り、大江広元を介して頼家へ上奏した。
頼家は景時を呼び釈明を求めたが、景時は一切弁明をせず、一族とともに所領の相模国一宮に退去した。
翌正月、景時は上洛を企てたが、途中の駿河国で在地の武士らによって討たれ、一族は滅亡した。頼朝の死からわずか1年後の事だった。
慈円は『愚管抄』のなかで、景時の失脚と滅亡は景時が他の郎党を侮り、讒言も度々であったがためと記している。
また『玉葉』には、景時の讒言は、「武士たちが千幡(実朝の幼名)を擁立して頼家を討とうとしている」というものだったと記されている。