源頼政、以仁王挙兵  打倒平氏 1180年

2023年4月30日

1180年に高倉天皇の兄である以仁王と源頼政が平氏打倒を計画し、以仁王が諸国の源氏や大寺社に蜂起を促す令旨を発した事件。

源頼政 Wikipediaより

頼政の謀反の動機は不明とされているが、結果的には頼政が以仁王を奉じて謀叛を起こしたと見るのが一般的見解だといわれる。

平治の乱後、平氏が朝廷内で権勢を強めると、次第に後白河法皇やその近臣間で反平氏の動きが強まる。清盛は後白河法皇を幽閉し反対派を一掃、次女徳子の産んだ安徳天皇を皇位につけた。

以仁王は後白河天皇の第3皇子で若くして英才の誉れ高く、皇位継承の有力候補と目されたが、異母弟・高倉天皇の母建春門院平滋子の妨害により、親王宣下も受けられぬ不遇をかこった。さらに高倉天皇の皇子安徳天皇の即位により以仁王の皇位継承は絶望的となった。

一方源頼政は、平氏の天下の中での源氏という立場の微妙さはあったにしても、清盛の引き立てをうけて家門最高の従三位という公卿の地位についていた。清盛は平治の乱で、頼政が義朝に組することなく平氏側についたことを評価すると同時に、乱後において全国の武士を統制するために、源氏という名門の武士である頼政を重用した。しかし、清盛の独裁政治が進行するなかで、しばしば清盛一門の横暴な振舞いが目立つようになっていた。

こうした情勢のなか、源頼政が全国の源氏に先駆けて打倒平氏の兵を挙げ、以仁王は諸国の源氏に令旨を発し平氏討伐を呼びかけた。

しかし、この計画は途中で露見したため、頼政の軍備が十分整わないまま戦闘に入り、宇治川の合戦で頼政は討ち死にし、以仁王も興福寺へ逃れる途中、平氏追討軍に討たれた。

この頼政・以仁王の挙兵に始まる平氏打倒の動きは、その後全国的な内戦へと発展していくことになる。


平安

Posted by kojiro