簡潔 鹿ケ谷の陰謀 平氏打倒の謀議 1177年

2023年4月30日

平安末期の1177年、京都郊外の鹿ケ谷でなされた平氏打倒の謀議事件。

俊寛 Wikipediaより

平氏を朝廷から追放しようという鹿ケ谷の陰謀が起こるきっかけになったのは、後白河法皇と比叡山延暦寺の対立であった。

加賀国の目代・藤原師経が白山の末寺・宇河寺を焼き討ちしたことに激怒した白山の僧侶が延暦寺に訴えでて、延暦寺の武装した僧兵が後白河法皇に強訴を仕掛けた。これに対し、後白河法皇は藤原師経を備後国に流す流罪に処すが、それでも僧兵の怒りは収まらず朝廷の内裏へと押しかけてきた。それを鎮圧するために後白河法皇は平重盛を派遣するが、結局、僧兵側の要望を全面的に聞き入れて加賀守であった藤原師高を尾張に流罪にする。

その後、後白河法皇が、延暦寺の座主明雲を解任して所領を没収し伊豆に流そうとすると、延暦寺の僧兵が明運を奪還して匿った。これに激怒した後白河法皇は重盛らに比叡山攻撃を命令する。攻撃に消極的だった清盛は後白河に押し切られる形で攻撃を決めるが、その出撃直前の夜半、後白河法皇の近臣らが平家追討の謀議をこらしていたことが発覚し、関係者であった藤原成親・西光・俊寛らが捕えられ斬首や流罪に処せられた。

ちなみに鬼界が島に流罪となった3人のうち俊寛だけは、生涯赦されず島に一人取り残された。

平安

Posted by kojiro