蛮社の獄 蘭学者弾圧 1839年
1839(天保10)年に幕府が蘭学者に加えた弾圧事件。蘭学を勉強している学者の集団のことを国学者は『蛮社』と呼んでいた。
江戸時代後期になると通商を求めて外国船が日本近海に出没、数々の事件も発生するようになる。またこの頃、貿易をしていた唯一の西洋の国であるオランダの学問(蘭学)を通じて、西洋の文化や知識などを勉強することが学者や知識層に徐々に広まっていった。
こうした中で1837(天保8)年、米船モリソン号が、日本漂流民の返還と引換えに交易を求めて浦賀に来航した。このとき、幕府は異国船打払令によって同船を砲撃し退去させた。
このような幕府の処置は、世界情勢を無視し、人道に反しているとして、蘭学者の渡辺崋山は『慎機論』を、医師で同じく蘭学者の高野長英は『戊戌夢物語』を著して、幕府を批判した。
これに対し幕府目付鳥居耀蔵は、幕政批判の罪で崋山を国元蟄居、長英には永牢(無期懲役)を申し渡した。その後、両名は自殺に追い込まれた。また、その他20数名の蘭学者が逮捕されている。
この事件のもう一つの背景は、鳥居耀蔵が、幕府の文教を代々司る林家の出身であったことである。儒教を尊んできた幕府の文教の頂点である林家一門にとって蘭学は弾圧すべき対象であった。