寛政の改革 松平定信 厳しい統制、倹約の強制 1787年

2023年4月30日

田沼意次の失脚後、代わって松平定信が老中に就任し、以後6年間にわたって幕政を担い、寛政の改革を断行した。

松平定信 Wikipediaより

①都市政策

・人足寄場
石川島に人足寄場を設け、軽犯罪者などに職業訓練を行い、彼らが独立できるように支援して治安の安定を図った。
七分積金令
江戸では、窮民の救済策として七分積金令を発布。江戸の町入用(町人の負担による町の経費)を節減し、節減額の7割を町会所(窮民救済のために設けた江戸町人の代表によって運用された備荒貯蓄を兼ねた金融機関・囲籾蔵も付属)に積立てさせ、幕府も2万両を補助して、貧窮者への低利融資を行うなど不時の災害の救援金に充てた。ちなみに、神田向柳原には12棟の囲籾蔵とともに江戸町会所が設置された。
旧里帰農令
田沼時代に農村から江戸に多くの人が流入していた。その中には、生活基盤を築けずに困窮する者も多く、社会問題化していた。農民の流出は、幕府の収入基盤である農村を荒廃させると同時に、江戸の治安悪化を引き起こしていた。
そこで松平定信は、農村の復興と江戸の治安回復のために、旧里帰農令を出して、故郷へ帰農を願い出た者には旅費や農具代を支給し帰村を促した。

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②農村政策

・囲米
飢饉に備え、囲米によって米を備蓄させた。諸大名に1万石につき50石を5年間領内に備蓄させる制度。さらに、民衆が一人ひとりの財力に応じた分を囲米として出し合い、管理も民間で行う「社倉」や、富裕者が寄付をする「義倉」の仕組みも作った。
・他国出稼制限令
飢饉により人口が減少した陸奥や北関東に対して、他国へ出稼ぎに行くことを制限した。
・その他
人口増加策として間引きの禁止や小児養育金の支給を実施した。さらに、耕地の復興や農業用水の再開発などのために公金貸付を行った。

③経済政策

・勘定所御用達
江戸両替商等の豪商を幕府に登用して勘定所御用達に任命し、彼らの資金をもって買米・出金を行って物価の引下げや米価の安定を図った。
・棄捐令1789年
知行地を持たず窮乏化した旗本や御家人を救うために棄捐令を発し、彼らが札差から借りた借金の返済を免除した。一方、幕府は札差への慰撫策として「猿屋町貸金会所」を設置し、札差への融資も行った。

札差とは、幕府と蔵米取(知行地を持たない旗本や御家人)を仲介して、米の受取や売却を行っていた商人で、生活に困窮している旗本や御家人に高利で金を貸していた。

④文教政策

・寛政異学の禁1790年
朱子学を正学とし、湯島聖堂の学問所で朱子学以外の学派の講義を禁止し、官吏登用は朱子学を学んだ者のみとして朱子学の振興を図るとともに、幕府に忠実な封建官僚育成を企図した。
・昌平坂学問所
湯島聖堂の学問所は後に昌平坂学問所と改称し、幕府の直轄学問所になった。そこでは、朱子学の奨励と人材の登用・発掘のため学問吟味という試験制度も設けられ、全国の武士教育の中心機関とした。
・出版統制令
出版統制令を出し、社会風俗に悪影響を与えるものや、噂話を写本にして貸すことを禁じた。こうして幕府政治への諷刺や批判を取締った。この結果、洒落本作者の山東京伝や黄表紙作者の恋川春町、出版元の蔦屋重三郎などが幕府により弾圧された。

また、林子平が『三国通覧図説』や『海国兵談』などで、外国の脅威を指摘し、軍備充実や海防の重要性を説いたが、幕府はこれを幕政への批判であるとして、林子平に禁固刑を課した。

⑤失脚の理由

・尊号一件
1789(寛政1)年、光格天皇が生父の閑院宮典仁(すけひと)親王に太上天皇(譲位した後の天皇)の尊号を贈ろうとしたが、幕府が拒否した事件。3年後再び朝廷は、尊号宣下の許可を幕府に求めたが、定信は要求を拒否する。翌1793(寛政5)年には公家の武家伝奏を江戸に呼び出し、処罰した。この結果、朝幕関係が悪化し、定信失脚の一因となった。

こうした一連の政治改革によって、幕政が引き締まることで、危機的な財政状態を回避し、幕府の権威は回復した。しかし、厳しい統制や倹約の強制は、庶民から強い反発を招いた。

また、尊号一件による朝幕関係の悪化や、将軍家斉との対立などもあり、1793(寛政5)年、老中在職6年余で定信は退陣に追い込まれた。

江戸

Posted by kojiro