禁教令 キリスト教の禁止とキリスト教会の破壊 1612年

2023年4月30日

1612(慶長17)年に、第2代将軍徳川秀忠が、江戸・駿府・京都・長崎など幕府直轄地におけるキリスト教の禁止とキリスト教会の破壊を命令し、翌年に全国へ布告した法令。

長崎でのキリシタン弾圧 Wikipediaより

かつて豊臣秀吉がバテレン追放令を出しながらもスペイン・ポルトガルとの南蛮貿易を続けたように、徳川家康もまたキリスト教の普及に危機感を覚えていたが、南蛮貿易で得られる利益を優先し、布教活動を厳しく弾圧することはなかった。

一方で、南蛮貿易は家康からすれば、西国大名の経済力の温存につながるというジレンマを抱えていた。家康は幕府の統制力強化のために、西国大名が貿易で利益を得ることを抑える必要があった。また、布教の保護によるキリスト教徒の増加が幕府の支配の妨げになるとして次第に警戒を強めていった。

1600(慶長5)年、オランダ船リーフデ号が漂着し、その乗組員であったイギリス人ウィリアム・アダムスとオランダ人ヤン・ヨーステンを厚遇した家康は、新たな貿易の相手として特にオランダを重視し朱印状を与えると、オランダは1609(慶長14)年、長崎・平戸に商館を開設して、日蘭貿易が本格的に始まった。こうして幕府はオランダとの貿易を独占することに成功した。

オランダ貿易の独占という新たな利権を得た幕府は、キリスト教の布教を許可せずとも欧州貿易の利益を確保できるという算段がついたため、禁教令に踏み切った。スペイン・ポルトガルは布教と貿易が一体となっていたが、オランダは、布教を求めず、貿易のみを希望した。

江戸

Posted by kojiro