簡潔 賤ケ岳の戦い 羽柴秀吉、柴田勝家を滅ぼす 1583年
1583年4月、近江国賤ケ岳(滋賀県長浜市)で、羽柴秀吉が柴田勝家を破った戦い。
清州会議終了後、秀吉は丹羽長秀や池田恒興らを懐柔し秀吉陣営を形成する。これに危機感を覚えた柴田勝家は、一方の後継候補であり三法師の後見役である織田信孝や会 ...
清州会議 羽柴秀吉が重臣筆頭の地位を占める 1582年
1582年6月27日(旧暦)に開かれた、織田家の継嗣問題と領地再分配に関する会議。後継者選びの争いを制した羽柴秀吉は織田家重臣筆頭の地位を確実にした。
会議には、織田家の重臣である柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4人が出席した。 ...
山崎の合戦 羽柴秀吉、明智光秀を討つ 1582年
1582年6月13日、明智光秀と羽柴秀吉が戦った合戦。この戦いに勝利した秀吉が、信長死後の織田家家臣における自らの立場を優位なものにした。
6月13日、山崎の地に到着した秀吉軍は、兵数およそ4万。対する光秀軍は、約1万6千の兵で対陣した ...
羽柴秀吉、中国大返し 1582年
主君・織田信長死亡の報を受けた羽柴秀吉が、信長を討った明智光秀討伐のために、常識を超える早さで京都へ向け引き返した。
本能寺の変が勃発したとき、羽柴秀吉は毛利方の清水宗治が守る備中高松城(岡山市)を水攻めで包囲していた。城を孤立させるこ ...
本能寺の変 明智光秀が主君・織田信長を弑逆 1582年
1582(天正10)年6月、明智光秀が京都本能寺に滞在中の主君織田信長を襲撃、殺害した事件。
1582(天正10)年6月2日早朝、明智光秀は、織田信長の命により羽柴秀吉の毛利攻めの援軍として、備中に向け約1万3千から2万の軍勢を引き連れ ...
天目山の戦い 武田勝頼一族滅亡 1582年
1582年3月11日、天目山の麓(山梨県甲州市)で行われた織田軍と武田軍の最後の戦い。この戦いで武田氏は滅亡した。
1582年2月、武田勝頼は、織田信長の侵攻を受けた。窮地に陥った勝頼は、真田昌幸の岩櫃城への誘いを断って、同3月3日家臣 ...
長篠の戦い 織田信長の鉄砲戦術 1575年
1575年、三河国長篠城をめぐり、織田信長・徳川家康連合軍と、武田勝頼の軍勢が戦った合戦。
武田勝頼は、1573年に信玄が病死したため家督を継ぐ。その2年後の1575年、勝頼は信長の領地の美濃に攻め入り、次々と城を落としていく。わずか1 ...
簡潔 織田信長、足利義昭を追放 室町幕府滅亡 1573年
1573年7月18日、織田信長が将軍・足利義昭が拠る槙島城を攻略し義昭は降伏する。信長は義昭を京都から河内に追放し室町幕府を実質的に終わらせた。
1569年8月に、信長は北伊勢・南伊勢の支配に乗り出し、国司の北畠具教を降伏させ、次男の信 ...
小谷城の戦い 浅井長政一族滅亡 お市と姫は救出 1573年
1573年8月8日から9月1日まで、織田信長と浅井長政との間で行われた戦い。敗れた浅井家は滅亡した。
1570年の姉川の合戦に勝利した織田信長は、その後も浅井・朝倉両氏の攻略を進め、翌1571年には、比叡山を焼き討ちして、さらに浅井氏を ...
三方ヶ原の戦い 武田信玄、徳川家康を撃破 1572年
1572年12月、武田信玄と徳川家康が遠江国三方ヶ原(静岡県浜松市)において戦った合戦。敗れた家康は、屈辱の敗走を強いられた。
将軍足利義昭の織田信長討伐令に応える形で上洛を目ざす信玄は、1572年10月3日甲府を発し、信州伊那谷から二 ...