簡潔「後三年の役」奥州清原氏の内紛 1087年
前九年の役の後に勃発した奥六郡の郡主清原氏の内紛を、源義家と藤原清衡が連合して平定した合戦。
前九年の役で安倍氏が滅亡し、清原氏の清原武則が出羽・陸奥国一帯を治めていた。その後清原氏の当主は、武則の息子・武貞、さらに嫡子真衡へと継承され ...
平氏の都落ち 源義仲入京後、平氏大宰府へ 1183年
平清盛の死後、統制力を失った平氏は源(木曽)義仲の入京を許すと、京都を捨て九州・大宰府に逃れた。
1181年、平清盛は反平氏勢力を完全に討滅するために、関東に進軍し源頼朝を討とうとするが、その直前に病にかかって死去した。清盛を失った平氏 ...
平氏、南都焼打ち 平重衡 1181年
平重衡が1181年、平清盛の命により東大寺・興福寺を焼き払った事件。このとき、東大寺の大仏も焼け落ち、両寺の堂塔伽藍は一宇も残さず焼き尽くされ、多数の僧侶が焼死した。
源頼政・以仁王の決起以降、源義仲の木曽での挙兵、さらには源頼朝との富 ...
源頼朝挙兵 打倒平氏 1180年
1180年(治承4年)、源頼政・以仁王の挙兵に始まる平氏打倒の戦いは全国的な内戦へと発展していき、ついに源頼朝が伊豆韮山で兵を挙げた。
挙兵した源頼政と以仁王は5月に敗死したが、以仁王による平氏追討の令旨は頼朝の叔父源行家により全国に伝 ...
源頼政、以仁王挙兵 打倒平氏 1180年
1180年に高倉天皇の兄である以仁王と源頼政が平氏打倒を計画し、以仁王が諸国の源氏や大寺社に蜂起を促す令旨を発した事件。
頼政の謀反の動機は不明とされているが、結果的には頼政が以仁王を奉じて謀叛を起こしたと見るのが一般的見解だといわれる ...
簡潔 鹿ケ谷の陰謀 平氏打倒の謀議 1177年
平安末期の1177年、京都郊外の鹿ケ谷でなされた平氏打倒の謀議事件。
平氏を朝廷から追放しようという鹿ケ谷の陰謀が起こるきっかけになったのは、後白河法皇と比叡山延暦寺の対立であった。
加賀国の目代・藤原師経が白山の末寺・宇河 ...
平治の乱 平清盛・源義朝 1159年
1159年、保元の乱で武功を挙げた平清盛と源義朝が争い、清盛が勝利し平氏政権の基盤を築いた。
保元の乱後、武士である清盛と義朝の勢力は強大になった。清盛が院近臣の藤原通憲(信西)と結んだのに対して、義朝は藤原信頼と手を組んだ。
保元の乱 崇徳上皇・後白河天皇 1156年
1156年、崇徳上皇と後白河天皇が朝廷の主導権を巡り摂関家、源氏・平氏を巻き込んで争った事件。
12世紀半ばになると、天皇家や摂関家の内部で皇位や氏長者の地位をめぐる対立が激化していた。
天皇家では鳥羽上皇(白河上皇の孫)と ...
前九年の役 陸奥国安倍氏の反乱 1051年
平安中期、1051年から1062年のあいだに陸奥国の豪族安倍氏が起こした反乱を、源頼義・義家親子が平定し、源氏の武名を高らしめた戦い。
陸奥では、豪族安倍氏が強大な勢力を誇り、中央の力が及びにくい半独立状態になっていた。安倍頼時の代に ...
簡潔 平忠常の乱 源氏、東国進出の足掛かり 1028年
1028年に上総権介・平忠常が上総・下総にかけて反乱を起こしたが、源氏の当主源頼信に鎮圧された事件。
房総地域一帯に勢力を持っていた上総権介・平忠常が安房国守の館を襲撃するという事件が起きた。乱の背景には定められた税を強引に取ろうとする ...