朝鮮通信使来日 (対馬・宗氏と李氏朝鮮) 1607年~
1607(慶長12)年に始まった将軍の代替わりの時に訪問してきた李氏朝鮮の外交使節のこと。
室町時代から日本と朝鮮の間で交流はあったが、豊臣秀吉による文禄・慶長の役によって両国は国交断絶状態となっていた。
徳川家康は対馬藩の宗氏を通じて国交回復に努め、1605年和睦が成立した。その2年後に最初の朝鮮通信使が来日し、以後1811年までの約200年の間に来日は12回を数えた。
一行は約400~500名もの大使節団であったが、幕府の権威を内外に示すために豪華な待遇でもてなした。交通費を含め接待に必要な莫大な費用は、全額日本側が負担した。
幕府から接待を命じられた沿道の大名たちも、他の藩より劣ることのないようにその饗応は贅を極めたという。その費用は毎回100万両にも達し、当時の幕府の予算(70~80万両)を超えていた。
行列の壮麗さは民衆を魅了すると同時に、沿道各地の文人や学者らとの交流も盛んに行われた。
しかし、莫大な費用負担は諸藩の財政を圧迫するようになり、1711年新井白石は使節の待遇を簡素化した。
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