藤原広嗣の乱 吉備真備・玄昉 740年

2023年4月30日

740年に大宰少弐藤原広嗣(藤原宇合=うまかいの子)が、吉備真備、玄昉を政権から除こうとして九州で起こした反乱。乱鎮定後、聖武天皇による遷都につながる。

聖武天皇 Wikipediaより

長屋王の変後、藤原不比等の四子(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)が政権を担うが、737年、当時流行した天然痘で相次いで死亡し、藤原氏は政権から脱落する。政権は、光明子の異母兄である橘諸兄に移り、これに唐から帰国したばかりの僧玄昉と吉備真備が参画した。この政権は反藤原氏勢力の結集だった。

一方、藤原広嗣は真備、玄昉と対立し、738年末、大宰府の次官である大宰少弐に左遷された。不満を持った広嗣は、真備・玄昉を排除すべく740年、1万に及ぶ兵を集めて九州で反乱を起した。

これに対して、聖武天皇は大野東人(あずまひと)を大将軍として1万7千の兵を送り、北九州の板櫃川(北九州市小倉北区)を挟んで広嗣軍と向かい合った。この戦いで広嗣は敗れて処刑され、乱は鎮圧された。

この乱は聖武天皇の恭仁京、続いて紫香楽宮への遷都の原因となり、また天然痘の流行もあって国分寺・東大寺造営の契機となった。





奈良

Posted by kojiro