日中戦争 東亜新秩序の建設 1937年~1945年
1937(昭和12)年7月の盧溝橋事件に始まり、当初の不拡大方針から増派に転じた日本に対し、中国も徹底抗戦で応じたため、その後8年に及ぶ全面戦争に発展した戦争。
盧溝橋での衝突から8月には上海でも戦闘が始まり(第2次上海事変)、戦火は南に広がった。
9月には国民党と共産党が再び提携して(第2次国共合作)、抗日民族統一戦線を成立させた。日本は次々と大軍を投入し、年末には国民政府の首都南京を占領した。
国民政府は内陸の重慶にまで退いてあくまで抗戦を続け、日中戦争は泥沼のような長期戦となった。
こうした中国の徹底抗戦に日本は、新興政権の樹立をもって対応する方針を打ち立てた。
一方では、和平工作も試みられたが、中国側にとって受け入れ難い過酷な条件であった。1938(昭和13)年1月には近衛首相が「国民政府を対手(相手)とせず」という声明を出し、国民政府との和平交渉を打ち切った。
さらに近衛は同年11月、戦争の目的は日・満・華3国の連帯による東亜新秩序の建設にあると声明し、国民政府が抗日を放棄すれば新秩序の一員として拒否しないとした。
そして、密かに国民政府の重鎮汪兆銘を重慶から脱出させ、1940(昭和15)年に汪を首班とする親日の新国民政府を日本占領下の南京に樹立させた。
しかし、蒋介石抜きの和平工作には限界があり、日本の戦争終結の工作は失敗に終わった。
国民政府はその後も米・英などからの支援を受けて、抗戦を続けた。