満州事変 満蒙の危機 石原莞爾 1931年
1931(昭和6)年9月18日の柳条湖事件に端を発し、関東軍による満州全土の占領を経て、1933(昭和8)年5月の日中軍事停戦協定に至る、日本と中国との武力紛争。
中国で国権回収の民族運動が高まり、在満日本人に対する圧迫が強まっているころ、日本国内では、軍や右翼が幣原喜重郎内閣の協調外交を軟弱外交と非難し、「満蒙の危機」を叫んでいた。
危機感を強めた関東軍は、中国の国権回収運動を武力によって阻止し、満州を長城以南の中国主権から切り離して日本の勢力下におこうと計画した。さらには社会主義国ソ連に対して、軍事的・地理的優位を獲得することも狙いだった。
関東軍は参謀の石原莞爾を中心として、1931(昭和6)年9月18日、奉天郊外の柳条湖で南満州鉄道の線路を爆破し(柳条湖事件)、これを中国軍の犯行として軍事行動を開始した。これが満州事変の始まりである。
事変勃発直後、不拡大方針をとった民政党若槻礼次郎内閣は、22日の閣議で軍事行動を追認し、さらに24日には軍の行動の正当性を認める声明を発表し、それを容認した。
金融恐慌や世界恐慌などの不況に十分対応できず、国民の信頼を失っていた内閣に軍部の行動を抑える力はなかった。